第2話 狼と不死鳥
狼を見る機会など、今までほとんどなかった。と言うより、馴染みある人の方が珍しいのだろう。
それでも目の前にいるものは、確かに狼だった。
白銀の獣は、二、三メートル先で、じっとこちらを見据えている。
思わず半歩下がる。
想像よりもずっと大きい。頭は私の腰くらいの高さだ。もしも飛びつかれたりしようものなら、ひとたまりもないだろう。
両手をゆっくりと下ろし、少しだけ前かがみになって狼と向き合う。
本当は今すぐにでも逃げたかったが、走ったところで勝ち目がないことは明白だ。素早く動いて狼を刺激することも得策とは思えない。かと言ってねじ伏せられるような力も武器もない。
震えながら静かに息を吐いた。どうすれば良いだろう。
「どうか、そんなに怯えないで。」
突然の声にぎょっとする。
狼はおもむろに芝に座り込み、首を垂れた。大きな尻尾で前足を覆う。
「危害を加えるつもりはありません。」
どうやら声の主はこの狼で間違いないようだった。
色々と混乱してはいるが、とりあえず命の危険は無さそうだという事実に安堵する。
「喋れるん、です、ね」
未だに荒ぶっている心臓のせいで上手く呼吸が出来ず、おかしな喋り方になってしまう。おまけに緊張のせいか口もからからだった。
狼は頭を下げたまま続ける。
「はい。困惑させてしまうようで申し訳ないのですが、この通り、喋れます。貴方の言葉も理解出来ます。」
少し低い、しかし淀みのない声。
頭に生える大きな耳を見て、いつまでも頭を下げさせてしまっている事に気がつく。
「いや、ごめんなさい。もう大丈夫です。それより、頭を上げて。」
私がそういうと、狼は腰を上げ、その目でもう一度こちらを見た。白に限りなく近い銀色をした身体よりももう少し澄んでいて、金色味のある眼光だった。
屈強でありながらも、どこかしなやかな足で、こちらに近づいてくる。
「私は
「分かりました。」
手にしたままだった財布を鞄に直しながら答える。
聞きたいことは多いが、どうやらそんな暇はないらしい。
「ありがとうございます。こちらです。」
その大きな尻尾を目で追いつつ、やや早足で後に続く。どうやら、多分、今のところ、この狼は悪い狼ではなさそうだ。
そう考えて、少し可笑しくなる。周りの幻想的な風景や、非日常感、緊迫感に捉われて疑問を忘れていたが、そもそも何で狼が喋るんだ。というかなんで狼がいるんだろう。
やっぱりここは現実世界ではないと考えた方が妥当だろう。途方に暮れそうだ。
しかも狼曰く、ここは危険な場所らしい。
少しずつ歩くスピードが速まっている。焦っているのだろうか。
一瞬だけ立ち止まり、パンプスを脱ぐ。これ以上速く歩くならヒールは邪魔だ。幸い芝の上は柔らかく、ストッキングでも問題なさそうだ。靴を手に急いで狼の後を追う。
それにしても、狼が危険でないこの世界で、一体私たちの身には何の危険が迫っているというのだろう。
そんなことを考えていると、不意に狼が足を止めた。慌てて私も止まる。声をかけようとすると、狼は上空を見上げ、唸り声を上げた。
「異臭。異臭。」
しゃがれた声が降ってくる。急いで顔を上げると、一羽の巨大な鳥が木の枝に止まっているのが見えた。
そのあまりの大きさに驚いて尻込みをする。なぜ枝が折れないのか不思議なほどだった。まるでドラゴンだ。
あるいは不死鳥が実在するのならば、このくらいの大きさなのかもしれない。
「異物、異物!」
その鋭い眼はどうやら私に向けられているらしい。
鳥はその美しい黄金色に覆われた両羽を広げ、バサバサと羽ばたかせた。途端に突風が私と狼を襲う。
「うわ」
「…よく聞いてください。」
とっさに鞄を構えなんとか風に耐えていると、狼がそっと耳打ちをしてくる。
「あの鳥は、貴方を殺しにかかってくるでしょう。」
「何で」
思わず声が出る。
「理由は後で説明します。なので、その『後』がくるようにどうにか耐えて下さい。」
「あなたは?」
「…私が戦うことは出来ないんです。」
その一言に絶望しそうになる。
私だって戦う術は持ってない。防御だって今鞄で風を防ぐので精一杯だ。
「私は助けを呼んできます。それより、ここでは想像を具現化することが出来る。」
「え?」
「貴方が上手く想像すれば、その物体が現れるんです。雑な説明ですが、その力を使ってどうにか切り抜けて下さい。いいですか、私は必ず戻って来ます。」
そう言うと、狼は上手く風を避け、一目散に走り去ってしまうではないか。
「えぇ…」
思わず情けない声が出る。正直、助けを呼ぶよりここで助けて欲しかった。
想像が具現化って、何だそれは。漫画か。
ただ狼の言うことは一部確かなようで、鳥は狼には目もくれない。確実に私狙いである。
「帰れ!帰れ!」
鳥はなおも羽で風を送り続けており、威力は増すばかりだ。周りの木もミシミシと音を立て始める。
このままでは飛ばされてしまう。
ならば。
「私だって帰りたいんだよ!」
私は鳥に背を向け、風を味方に走り出した。
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