庭に眠る

全力で消費者

一日目

第1話 落ちる

 青く、あたたかな匂いが鼻をつく。

 頬を撫でるような柔らかな風に、私は目を開いた。


 「……」


 そこはひどく明るい場所ように思えた。

 目の前には頑丈そうな木の根が、こちらに手を伸ばしているのが見える。

 上半身を起こして辺りを見渡す。妙に頭がすっきりとしていた。


 私を取り囲むように、ぐるりと背の高い木々が立ち並んでいる。いや、どちらかというと私の周りにだけ空間ができていると言った方が正しい。

 一本一本の木が大きな葉を携え、枝を広げているにも関わらず、辺りはやんわりとした光で包まれている。太陽のような暖かさを備えつつ、ぎらぎらとした強さは感じさせない、どこか柔らかで不思議な明るさだった。

 手に触れる芝もその輝きを受け、飴細工のように透き通った緑色をしている。


 どうやらここは森の中で、何故か私はそこで寝ていた、もしくは気を失っていたようだった。


 「どこだよここ…」


 多少混乱しながら、側にあったリクルートバッグの中身を確かめてみる。スマホも財布もきちんとある。財布の中身もおそらく無事だ。拘束もされていないし、拉致された訳ではなさそうだ。

 ただ充電切れなのか、スマホの電源は入らない。こんな森の中では公衆電話も期待出来ないだろう。連絡手段はなさそうだった。

 おまけに腕時計も何故か止まってしまっているため、今日が何日で今が何時なのか、てんで検討がつかない。

 分かるのはここが知らない場所だということだけだった。 


 他には何も無さそうだし、ここにいても埒が明かない。仕方なしに鞄を持って立ち上がる。とりあえず誰か、何かを探さなければ、と思った。

 歩き出そうと少しよろけて、自分がパンプスを履いていること、スーツ姿でいることに気がつく。

 こんな幻想的とも言える場所に、あまりにも場違いな装いだ。いつもは同化するための姿だと言うのに。


 「……あれ」


 そこまで考えて、ゆっくりと血の気が引いていくのを感じた。


 何で私はスーツを着ている?ここに来る前何をしていた?いや、そもそも私は今まで何処にいた?家族は?歳は?

 きっと全く覚えていない訳じゃない。けれど思い出そうとすると、まるで波が記憶を攫うかのように、頭が空っぽになるのを感じる。


 つまり、私は自身の身元すら分からない状況にあるらしい。

 背中にじわりと冷たい汗がにじむ。


 一応頭を触ってみるが、特に外傷がある訳でも無さそうだ。痛みもない。でも、それなら何故何も覚えていないのだろう。


 「いや」

 

 考えても仕方がない。

 当てもないが、とりあえず木々の間を進んでみようと歩き出す。身体を動かした方が、頭も少しは落ち着くかもしれない。


 木々の間に立つと、そこには同じような風景が広がるばかりだった。大きな木々が間隔を保ちつつ、ただひたすらに生い茂っており、木漏れ日もないのに辺りは明るい。足元も起伏はおろか砂利すら無く、一面に芝が生えそろっている。

 このまま進めば、元の場所にすら戻れなくなるだろう。


 私は財布から10円玉を取り出し、芝の上に置いた。少し葉に埋もれてしまい分かりづらいが、目印になる様なものは生憎、小銭くらいしか持ち合わせていなかった。まるでヘンゼルとグレーテルだ。

 どこか開けた場所に辿り着くことを願いつつ、歩みを進める。


 本当にフィクションのようだと思う。そうでなければ変な夢か。

 主人公が知らないうちに閉じ込められたり、違う世界に飛ばされたりする映画やアニメをよく見ていたが、まさか自分がそういう状況に陥るとは。

 しかし、その作品たちのお陰である程度冷静でいられている気もする。正直不安は大きいが、どこか非現実味があるからこそ、多少楽観的に考えられるのだろう。覚えていて良かった。


 そう、覚えていることが何も無い訳では無いのだ。

 例えば名前。私はルカだ。苗字は覚えていないが、それだけは何故かきちんと分かった。

 そしてこの鞄やその中身が自分の物であるということにも、不思議と疑いはなかった。

 あとは自分以外のことだ。スマホの使い方、お金の機能、時間の概念。そういった常識的なことは問題なく理解できる。

 そしてなにより、ここが記憶にない場所だということを、私は知っている。

 

 時折小銭を撒きつつ、淡々とどこかへ進んでいく。

 森の中、明るさが有り難かったが、それも夜になれば無くなってしまうだろう。気温も今は丁度良いが、夜になるとどうなるか分からない。あいにく食べ物や飲み物も持ち合わせていない。

 森のサバイバルとなると、やはり最終的に兎を狩ったり、昆虫を食べたりする羽目になるのだろうかと考え、かなり憂鬱になる。

 

 「そういえば」


 ふと立ち止まり、耳を澄ませてみる。

 緩やかな風が木の葉を揺らす、乾いた音が聞こえた。そして風が止み、静寂。

 間違いない。他の生き物の音が全くしていない。

 それどころか、思い返すとここに来てから、一匹の虫すら見ていないような気がする。

 こんな大きな森に生き物がいないなんて、あり得るのだろうか?


 いよいよ非現実味が増してくる。

 もしかして場所どころか、本当に世界すら移動してしまったというのだろうか。

 急にこの場所が不気味に感じ、不明瞭な恐怖が募る。

 とりあえず小銭を置こうと財布を開いた。

 そしてある事に気がついてしまう。

 

 「……返ってきてる。」


 そう、置いてきたはずの小銭が財布の中に戻って来ているのだ。

 使い切ったはずの10円玉が何食わぬ顔で財布の中に眠っている。数えてはいなかったが、この調子では100円玉も戻って来ているのだろう。

 この事実は、此処の異様さと、元の場所に帰れなくなったことを同時に意味していた。

 

 「どうし」


 その瞬間、背後に何らかの気配を感じる。

 途端心臓が早鐘を打つ。逃げるという選択肢が頭を過るが、足が固まってしまっているのが分かる。財布も持ったまま、ただ背中に神経を集中させる事しか出来ない。

 さん、さんと、芝を踏む足音が聞こえる。

 一歩ずつ、しかし確実に、何者かがこちらに近づいて来ている。


 どくどくと、全身へ急速に血が巡っていく。

 私はゆっくりと後ろを振り返った。


 意図せず、ひゅっと喉が鳴る。


 そこにいたのは、一匹の狼だった。

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