第3話 自転車なんて乗ったことないもの

「キミコ、かーえろっ!」


 練習が終わった後、真由が希望子に飛びついてきた。


「来るな暑苦しい!」


 希望子はハグしようとする真由をかわした。真由は「あれれ~」と言いながら壁に激突。そんな姿を見て、二年の先輩たちは笑っていた。


「二人は仲良いんだね」


 歌音に言われて、希望子はなんだか恥ずかしくなった。同じ中学からの縁で、希望子と真由はとても仲がいい。でも真由の女の子好きには困っている。できれば、合唱部の生徒には知られたくなかった。


「う、うち、もう帰りますね」


 恥ずかしさを紛らわすためにさっさと帰ろうとすると、ソプラノの神埼絵美が部屋のあちこちにまだ立っている生徒たちの間をすり抜け、「お疲れ様です」と小声で言って出ていった。


「あれ、神埼さん、なんか急いでた? 面白そうだから追いかけようよ」


 真由が楽しそうに言う。真由は絶対、美人の絵美に近づきたいだろうな、と希望子は思った。でも希望子は部室一番乗りに負けた絵美に、ライバル心を持っている。


「えー、急いでるんなら先に行かせてあげなよ」

「キミコちゃん、わたしからもお願いしていいかな?」


 希望子が渋っていると、意外にも歌音から声をかけられた。


「えっ、なんでですか?」

「神埼さん、すごく綺麗な声で、音取るのもすごく早いんやけど、何ていうか、あんまり上手くお話できんかったんよな……同じ一年生のほうが話しやすいでしょ?」


 要するに、友達になってくれという頼みだ。

 希望子は尻込みしていたが「行こう行こう!」と真由が急かすし、歌音の頼みを断れなかったので、渋々ついて行くことにした。

 早足で玄関に向かう絵美を、希望子と絵美が走って追いかける。


「神埼さーん!」


 先陣を切ったのは真由。まだ話したことのない絵美が相手だと、流石にいきなり抱きついたりはしない。でも体が触れるくらい近づいて、絵美を捕まえている。真由の女子に対するコミュ力の高さに、希望子は時々感心してしまう。


「一緒に帰ろ!」

「一緒に? 私、バス通学なのだけど」

「えっ、バス乗るん!?」


 後ろで聞いている希望子も、絵美の言葉に驚いた。

 御所高校付近は公共交通機関がほとんどない。通学の足は、八割以上が自転車だ。その次に親の送迎。あとは学校から許可をもらって原付に乗ったり、運良く学校の近所に住んでいる生徒が徒歩で来たり。バス通学、というのは聞いたことがなかった。


「どこからバス乗るん?」

「学校から歩いて出て、コンビニのところにバス停があるわ」

「知らんかったー! 家はどこなん?」

「鍛冶屋原、っていうとこ」


 希望子と真由が顔を見合わせた。二人とも、同じことを考えたのだ。


「うちらの家も鍛冶屋原なんやけど!」


 鍛冶屋原とは二人の住む地域のことだった。田舎だが、かつて村役場があった街で、住宅が密集している。希望子と真由の通った御所東中の生徒は、だいたい鍛冶屋原に住んでいる。


「ほなけど、鍛冶屋原までだったら自転車で行けるだろ?」


 真由が言い、希望子もうなずいた。

 御所高校から鍛冶屋原まで、自転車で二十分くらい。この距離なら、女子でも自転車を使うのが普通だ。


「自転車なんて乗ったことないもの」


 想像していなかった答えに、希望子と真由は絶句した。

 高校生にもなって、自転車に乗ったことのないヤツがいるか?


「じゃ、じゃあ今まで移動する時はどうしてたの?」

「歩きか、電車かバスだけど」

「で、でんしゃ?」


 電車。

 それは四十七都道府県で、徳島県にだけ存在しない公共交通機関だ。


「……神崎さん、どっかから引っ越してきたん? 東京とか?」


 希望子がやっと気づいた。どうやら文化圏が違うのと、話し言葉が希望子たちの阿波弁とは違って、きれいな標準語だったことが決め手だ。


「そうよ。前は東京の世田谷区に住んでたわ」

「ええーっめっちゃ大都会やん!」

「世田谷区は大都会という訳でもないけど……」

「うちらからしたら東京なんて全部大都会やけん! なあ希望子!」

「あー、うん、そうやな」

「ごめんなさい、そろそろ急がないとバスの時間があるから」


 ちょうど駐輪場前に着いたころ、絵美がスマホを見ながら言った。二人はとりあえず絵美を見送って、それぞれ自転車に乗った。

「東京から来た謎の美少女!」とはしゃぐ真由をよそに、希望子は絵美のことを考えていた。

 東京から引っ越してきて、寂しくないのかなあ。

 なぜか希望子は、今まで目の敵だった絵美がかわいそうに思えてきた。

中学時代から希望子は姉御肌で、特に部活の友人や後輩の面倒見はよかった。仲良くしておけばいつか味方になるし、そっちの方が絶対、毎日楽しく過ごせる。競技の激しさゆえに仲違いすることはあるが、それは一時のこと。

でも今の絵美には、仲良くできる人が学校にいない。

 そう考えると、放っておくわけにはいかなかった。

これ以来、希望子はしばらく絵美の様子を気にかけることにした。


* * *


御所高校合唱部の週末は、土曜の午前中に練習があり、それ以外は休みだった。

バスケ部で毎日の朝練プラス土日の練習を続けていた希望子にとっては、全くもってぬるいスケジュールだ。上手くなるためにもっと練習を増やしたい、と希望子は思っていた。

平日も土曜も、発声練習のあとはひたすらコンクールで歌う曲の音取り。アルトパートでは希望子が一番遅れていて、憂鬱になりかけていた。


「アルトで最初っからちゃんと音取れる人やおらんけん心配せんでええよ」


パートリーダーの隆子は毎日のようにそう言った。他の二年生も同意している。どうやら、希望子が落ちこぼれという訳ではなく、初心者としては平均的なレベルらしい。

でも、このままではいけない

土曜の練習が終わった後、希望子は憧れの歌音に頼んで、発声練習や音取りを見てもらおうと思っていた。パートリーダーの隆子にも相談したが「そういうのは岸田くんか部長さんにお願いしな」とかわされた。アルトパートには飛び抜けて上手い生徒がいないのだ。合唱の場合、各楽器によって双方がぜんぜん違う吹奏楽とは違い、全員やっていることが同じなので、パートまたぎで教えてもらうのもありだった。

ミーティング終了後、希望子が歌音に話しかけようとしたら、その前に神崎絵美が何かを話していた。歌音はソプラノの集団に、希望子はアルトの集団にいるから、絵美の方が早かった。

また先を越された!

そう思った希望子だが、絵美が小声で、不安そうな顔で話していたので、ひとまず様子を見ることに。


「えっ、ほうなん? うーん、別にいいけど、午後は吹部の子がこの部屋使ったりするけんなあ」


 歌音が困った顔で答えている。もしかして、絵美も歌音に自主練をせがんでいるのか。そう思った希望子は、二人の間に割って入った。


「上月先輩、神埼さんと午後自主練するんですか?」


 希実子が言うと、二人はえっ、と意外そうな顔になった。


「違うよ。神埼さん、バスが夕方までないからここで待ちたいって」


 ああ、そっちか、と希望子は思った。

 田舎のバスは絶望的に本数が少ない。そもそもバスが走っていることを、大半の住民が知らないくらいだ。学校が休みの土日は、いつもより本数が少なかった。


「じゃあ、お昼食べて、バスの時間まで自主練してください。うちも一緒に!」


 本当は歌音を独占したい希望子だが、バス待ちの絵美を放っておくのは少し可愛そうだ。

 まだ一人で自信を持って歌えるほどの実力もないので、二人一緒のほうがなんとなく安心、という気持ちもあった。


「ごめんなさい、わたし、土曜の午後は声楽のレッスンがあるけん、残れんのよ」

「せ、声楽のレッスン?」

「そう。徳島まで行くけん、あんまり時間がないんよ」


 歌音は、合唱部の活動意外に、専門的な声楽のレッスンを受けていた。

 希望子は、ピアノ教室くらいは知っていたが、歌をうたうだけの教室があるとは知らず、一瞬戸惑った。でも徳島まで行く、と言われて納得した。徳島とは徳島市のことで、御所町から車で行くと四十分くらいかかる。だから移動時間を考えると、午後は全部開けなければならない。


「そうですか……」

「私は大丈夫ですよ。勉強できるように準備してますから。吹部の人が来たら、別の教室とかに移ります」


 絵美は不便になることを想定済みらしく、特にがっかりしていない。


「うん。ごめんな。わたし、そろそろ帰らんと」


 そう言って歌音は出ていった。いつの間にか他の部員も帰っていて、アンサンブル室に残ったのは希望子と絵美の二人だけになった。

 気まずい。

 せめて真由がいればいいのだが、別の子と一緒にさっさと帰ってしまった。


「……あんた、お昼ごはんどうするの?」

「買ってきてるわ」


 絵美は自分の鞄からコンビニの袋を取り出した。サンドイッチが一つと、紙パックのリプトンのミルクティーが一つ。それだけだった。


「えっ? それお昼ごはん?」

「そうだけど?」

「おやつじゃなくて?」

「……ご飯だけど?」


 活発な希望子からすれば、成長期の女子がお昼にサンドイッチしか食べない、というのは理解できなかった。学校帰りにコンビニへ寄ってつまみ食いする時の量を、絵美は昼食だと言っている。


「こんなところで一人で食べるの、寂しいでしょ?」

「別に。一人は慣れてるから」

「えっ? お昼休みとか一人でお弁当食べてるの?」

「普通に、近くの席の人と食べてるわよ……私の家、親がほとんど帰ってこないから」


 家に誰もいない、ということを全く寂しくなさそうに、そっけなく言う絵美。

 希望子はそんな絵美を見ると、放っておけなかった。

 同じ部のチームメイトとして、一人だけぽつんと浮いてしまう子がいるのはよくない。実力差やコミュニケーション力の差はあっても、最終的には一つのチームとしてまとまらなければならない。

 音楽的センスのない希望子だが、バスケ部での経験からそういう意識が強かった。


「私が送ってあげる」

「送る? どうやって?」

「自転車よ。後ろに乗りなさい」

「えっ? 二人乗りは道路交通法違反よ」

「うっ,そうなのよね……」


 自転車の二人乗りと言えば、かつては男子が女子を後ろに乗せることに憧れるイメージもあったが、最近は危険なためか取り締まりが厳しい。先生ならともかく、警察に見つかるとまずい。


「じゃあ、あんた、うちの自転車乗りなさい。うちは走るから」

「えっ、自転車乗ったことないのよ、私」

「教えてあげるから! ほら行くよ!」


 こうして希望子は、絵美を無理やり連れて帰ることにした。

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