第2話 まーまーまーまーまー

 御所高校では、新入生が入学した次の週が部活見学期間で、その週末に入部届を出すことになっている。

 初日、合唱部に集まったのは、女子二人男子三人の合計五名。


「初日から五人も集まるとは幸先がいい。だが、今のままでは流石にバランスが悪いな」


 初日の見学会が終わった後、岸田がそう言った。この人はギリシャ人のような外見も特徴的だが、話し方もまた探偵小説に出てくる探偵のような口ぶりで、よく目立つ人だった。


「うち、知り合いに声掛けて部員集めます!」


 希望子は威勢よくそう答え、翌日から同じ中学出身の女子を中心に誘ってみた。

 しかし、「えー、合唱部?」という反応が大半で、上手くいかなかった。合唱部はどちらかというと陰気なキャラが集うイメージを持たれていた。それに希望子の知り合いは、ほぼ体育会系で音楽など縁がなかった。

 唯一希望子が捕まえたのは、小学校からずっと一緒にいた岬真由という女子だ。


「え! キミコ合唱部入るん? なにそれ面白そう! わたしも行くー!」


 実を言うと、希望子は真由がすこし苦手だった。幼稚園児のような丸顔と小さな体で、一部の男子からは人気がある女の子だ。本人は『女好き』で、気に入った女の子にしょっちゅうハグするという危険な子だ。希望子もよく狙われて、毎回「暑苦しいからやめな!」と引き剥がしていた。

 合唱部に興味を持ったのも、女の子が多く、べたべたと一緒に居られるからだ。こいつを入れたら風紀を乱してしまうかもしれない、と思いながらも、貴重な人材を見逃すことはできなかった。

 希望子の心配をよそに、真由は先輩たちから問題なく受け入れられた。むしろよく可愛がられていたくらいだ。

 希望子の活動とは別に、週末にかけて何人かの女子たちが集まってきた。多くは、合唱部経験者だった。他の部活を見て回ったけど、やっぱり昔やっていた合唱部がいい、という子たち。

 一方、男子は最初に連れてきた三人から増えなかった。


「まあ、思春期の男子にとって、人前で、大きな声で歌えというのは酷な話だからな。経験者じゃなければ、なかなか入ってくれないのが現状だ」


 岸田がそう説明した。威勢のいい希望子ですら、人前で歌うのにはまだ抵抗がある。男子なんて、クラスの合唱コンクールでもまともに歌わない奴らばっかりなのだ。希望子は妙に納得してしまった。

 最終的に、女声六名、男声三名が入部届を出した。

 そして、翌週の月曜日。

 希望子は胸を弾ませながらアンサンブル室に向かった。今日から、本格的に練習が始まる。発声練習をあの上月先輩に教えてもらえる……そう思っていた。


「はい、じゃあまず一年生のパート分けしましょうね」


 皆が集合した後、歌音がそう言った。

 混声合唱は一般的にソプラノ、アルト、テノール、バスの四パートに分けられる。女声のソプラノは高い音、アルトは低い音を担当する。先輩たちの話を聞いて、希望子もそれは知っていた。


「男声はもう決まってるからいい。中学の時と一緒だ」

「はーい。じゃあ女声、声出してみましょう」


 岸田が言ったあと、歌音がピアノをぽろろん、と鳴らした。


「わたしと同じように歌ってみてくださ-い」


 歌音はまーまーまーまーまー、とソファミレドの音階(希望子はまだどの音なのかわからないが)を歌った。歌詞がついてなくても歌音の歌声はとても透き通っていて、とても美しい。

 一年生はみんな難なく、同じ音程を歌った。

 歌音が一音ずつ音程を高くして同じように歌い、一年生もそれに合わせる。希望子はだんだん高音を出すのが苦しくなってきた。


「はい、女声はここから裏声になりまーす」


 まーまーまーまーまー、と歌値が声色を変えて歌う。それは部活紹介の時、歌音が歌っていた声と同じだった。

 なんだ、高い音にはちゃんと出し方があるんだ。

 納得して、希望子は皆と同じように歌った。

 だが、やはり苦しい。

 歌音がどんどん音程を上げてゆくので、希望子はやがて声が出なくなった。


「あっ、無理しなくていいから!」


 希実子が苦しがっていることに気づき、歌音が慌てて止めた。


「うーん。とりあえず、小川さんはアルトかなあ? 岸田くんどう思う?」

「間違いない。全体のバランスもあるが、とりあえず際立って高音と低音が得意なものを先に分けるべきだ。その間のメゾ・ソプラノの人は、人数バランスを考えて割り振ろう」

「そうだね。じゃあ小川さんアルト!」


 後ろで見ていたアルトパートの二年生たちが手を叩き、希望子を受け入れた。


「えっ、あっ、はい」


 希望子は逆らえず、アルトパートの集まりに入った。憧れである上月先輩はソプラノパートなのだが。


「じゃあ、残りの人も決めていきましょうね」


 そう言って歌音はどんどん音程を高くしながら、発声練習を続けた。希望子にはとても出せそうにない、頭がキンキンするような高さまで続いた。


「神埼さんはソプラノだね」

「うむ」


 歌音と岸田が納得し、神崎絵美はソプラノに決定した。

 希望子はまたライバル心を燃やす。自分より先に部室へ着いていたあの子が、自分の希望していたソプラノパートなのだ。

 この後もパート分けは続き、一年生の女声は三名ずつ、ソプラノとアルトに分けられた。


「じゃあ、今日から各パートに分かれて練習します」


 パート練習、いわゆる『パー練』が始まった。

 アンサンブル室一つでは足りないので、アルト、テノール、バスは空いている教室へ移動。

 パートリーダーの二年生・麻植隆子が、まず挨拶をする。


「えーっと、アルトのパートリーダーの麻植隆子っす。みんなタカシって呼んでます。タカシ先輩でいいです」


 隆子はとてもボーイッシュな女子で、髪はベリーショート、身長もそこそこあり美人というよりイケメンに近かった。

 みんな隆子という名前をもじって、タカシと呼んでいる。

 この時、同じくアルトに決まった岬真由が隆子のことをキラキラした目で見ていて、希望子は心配になった。真由は「女の子の彼氏が欲しいー!」などといつも言っているのだ。


「今日から、合唱祭とコンクールで歌う曲の音取りです。とりあえずコンクールの課題曲は千原英喜の『夜もすがら』で決まってるから……あ、合唱祭とかコンクールとかわからないよね?」


 隆子が、これからの予定を説明する。

 次の本番は、六月末にある合唱祭。県内の中学、高校や社会人のアマチュア合唱団が集い、十分程度の演奏を行うイベントだ。

 その次が、八月の全国合唱コンクール徳島県大会。

 全国合唱コンクールは、上位のみが四国大会に進める。いわば運動部のインターハイのようなもの。合唱祭ではコンクールまでに一年生の経験を積ませるため、コンクールと同じ曲を歌う。


「コンクールで歌うのは課題曲と自由曲の二曲です。課題曲はいくつかあるけど、もう決まってて『夜もすがら』という曲にします。自由曲はまだ決まってません。そのうち酒井先生か部長さんが決めます」

「……あの、質問してもいいですか」


 中川瑞希という一年生が声を上げた。瑞希はすごく地味なメガネの子で、長い髪をすべて後ろで結び、おでこを出しているのが特徴だった。

 中学から合唱をやっていて、一日目は本人いわく「緊張してアンサンブル室の扉を開けられなかった」らしい。二日目に岸田が隠れながらもアンサンブル室を気にしている瑞希を見つけ、やっと合唱部にたどり着いた。そんな子だ。


「どうした?」

「先生は、練習に来ないんでしょうか」


 それは希望子も同じく、疑問に思っていた。練習をするのにコーチや先生がいないのは不自然だ。


「あー、酒井先生は吹奏楽部メインなので、本番前一週間くらいしか来ないよ。そもそも音楽の先生、一人しかいないからね。練習は基本、自分たちでします」

「そ、そうなんですか」


 入部届を出した時、一度だけ酒井先生がアンサンブル室に来た。若い女の先生で、わりと美人だったのを覚えている。

 その酒井先生の影はどこにもないし、二年生たちはそれが当たり前だと思っているようだ。


「じゃ、音取り始めようか。まずは階名で……あっ、わかる?」

「……階名ってなんですか?」


 わからなかった希望子は、正直に答えた。


「あー、小川さんはやっぱわかんないか。ドレミのことだよ。歌詞はつけずに、ドレミで歌うんだ。その方が音程を正確に覚えられるんだよ。岬さんと中川さんはわかる?」

「真由はピアノやってたからわかります!」

「は、はい、一応」


 経験者の瑞希はともかく、同レベルだと思っていた真由に先を越され、希望子は少し悔しくなった。


「い、いちおうドレミは読めます! 音楽の授業で習ったので!」

「ふーん。じゃあやってみようか。僕がピアノ弾いてみるから、同じように歌って?」


 ボクっ娘! と真由が勝手にはしゃぐのをよそに、隆子がピアノを弾き、皆がそれに合わせて歌った。希望子は、三つ目の音符で階名を読めなくなった。


「さ、最初は楽譜に書いたほうがいいよ」


 隣で気づいた瑞希がフォローする。隆子も「そうだね」と同意。


「は、はあ……」


 全く上手くできなかった希望子は肩を落とし、瑞希に教えてもらって楽譜に階名を書き込んだ。

 その後、『音取り』と呼ばれるパート練習は続いた。二年生や瑞希と真由は歌えていたが、希望子はそもそも楽譜を読みながら歌うのに必死で、一番足を引っ張っていた。

 それに、アルトの歌うメロディは、全然パッとしない、意味不明な音だった。

 低い音域の、よくわからない旋律を淡々と歌う。これを歌うことに何の意味があるのだろう?

 歌音の美しい歌声を聞いて合唱部に入った希望子からすれば、アルトのパー練は苦痛でしかなかった。

 この日、希望子はバスケ部の練習で激しく体を動かした時よりもずっと強い疲れを感じた。


* * *


「はあ~」


 御所高校の合唱部では、パート練習が終わるとみんなアンサンブル室に戻り、軽いミーティングをしてから解散となる。

 ミーティングが終わった後、希望子はどっと疲れが出て、思わずため息をついた。


「小川さん、小川さん」


 皆の前に立っていた歌音が、ちょいちょいと手招きをして希望子を呼んだ。


「初練習、どうだった?」

「散々でしたよ。階名読めないし、音はぜんぜんわからないし、どう歌ってもパッとしないし……合唱ってこういうものなんですか?」

「ハハッ。それは、アルトだからだ」


 隣にいた岸田が言った。歌音が部長、岸田が副部長なので、ミーティング時は二人並んで立っている。終了後も二人でいろいろ打ち合わせをしていて、この二人はいかにも幹部、という雰囲気だ。


「アルト、だから?」

「混声合唱の場合、ソプラノは主にメロディ、バスはベースとなる低い音、アルトとテノールは和音を作るために必要な音、と決まっている。アルトだけ歌っても意味わからなかっただろう?」

「はい! 意味わかりませんでした!」


 後ろで聞いていたアルトパートの女子たちが笑った。もしかしたらアルトの人たちをけなしてしまったかも、と希望子は思ったのだが、どうやら皆そう思っているらしい。


「合唱は、吹奏楽部と違って自分のパートを選べないからな。イメージと違うのは仕方ないことだ。僕もそうだったよ」

「今は意味わからんと思うけど、合わせ練習の時にわかると思う。アルトがおることで、曲がすごい綺麗になるんよ。それまで頑張ってな」


 正直、希望子はこの日の練習でかなり参っていたのだが、岸田の適切なフォロー、それに心酔している歌音に励まされて、不思議とやる気を取り戻した。「はい!」と希望子は元気に答えた。


「ちなみに、合わせ練習っていつからやるんですか?」

「んー、タカシくん、どんな感じ?」


 歌音が隆子に聞いた。隆子は会話に混ざらず、帰宅するためすでにカバンを背負っていた。


「ゴールデンウイークまでにできるかどうか、くらい」

「厳しいなあ~」


 隆子はそっけなく答え、歌音が苦笑いする。

 どう考えても、足を引っ張っているは自分。希望子はそう思い、肩を落とした。

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