夜の扉

 夜の帳が降りた外は暑さが一段落していた。八月週末の夜は、深夜まで遊ぶのに最適な時期だが、新潟では夜遊びもできなかった(少なくとも康弘には夜遊びプランを提案できなかった。なぜなら、彼にとってこの街はまだアウェイ同然だったから)。しかし、自分からお開きにしようとは言いたくなかった。幸い、基子は次の店を提案してくれた。そこはほど近い場所にあるバーだった。

 康弘は基子の後に続き、ガラス張りの路面店に入った。制服のバーテンダーが出迎えた。バーテンダーは男性二人。店には二〇人は入れるだろう。すでに六割くらい客が入っている。

 渚と別れて以来バーに足を運んでなかった康弘には新鮮だった。一人飲みではどうしてもコスト重視になるからな、と彼は思った。二人はカウンター席に着いた。バックバーの多数の酒瓶は壮観だった。

 基子はモヒートを、康弘はジンリッキーを注文した。

 出されたカクテルはよくHUBで飲むものとは別物だった。グラスがまず違った。薄いグラスで、繊細な雰囲気があり、味にも良い影響を与えているように思えた。康弘はバーに来たことが久しぶりであることを話した。

「そうなんだ。そう言えば、ネット配信でもよく立ち飲み屋から配信してるけど、バーからはないよね」

「うん。バーは高いしね。それに一人でバーというのもね。まあ、バーテンが話しかけてくれるときもあるけど。でも、こうして二人でバーで飲むのが一番楽しいよ」

「楽しい? ほんとに? それは良かった」

 楽しいのは、君がいるから、というセリフが浮かんだ。しかし、一杯目で言うセリフではないと思えた。バーでのドリンクの順番同様に、アプローチにも手順が必要である。適切な手続きさえ踏めば、彼女と親密になれるはずだ。バーでこうして二人でいること自体がそういう手続きに含まれていると考えられるのではないだろうか。そうだとしても、そういうことを意識しすぎるのは、良くない兆候と思えた。基子は風俗嬢ではないし、性行為が前提されているわけではない。男女関係はセックスを抜きにはないとしても、そこに照準を合わせるべきではない、と康弘は考えていた。それは会話がどこか嘘くさくなるし、何か深い話ができない気がするからだ。しかし、それは飽くまでも机上の空論であり、こうして今にも触れられる距離に女性がいる場合は、その身体性がすべてを凌駕した。康弘にとって、女性の最大の魅力は、身体にあることは間違いなかった。

 それでも、康弘は基子が古くからの知り合いであり、街でナンパした女性ではないことを意識していた。結局、基子は家族ではないが、子供の頃を知っているため、家族的なところがある。そういう相手にアプローチするのは、転倒しているのではないか。もっとも、もう子供ではないが、どこか昔のことが思い出され、それがブレーキになる気がした。

 しかし、一方で、子供時代の罪を贖う機会とも考えられた。中学二年の頃、基子からアプローチされたのだった。それは突然のことだったが、中学生にしては普通かもしれなかった。教室という空間を共有していることで、相手のことは家族同然にわかるものだから。

 当時、康弘は郁子のことを恋慕していた。郁子は小学五年の頃に転校してきて、その可愛さとスタイルの良さでたちまち人気者になった。彼女は康弘の家からほど近い集合住宅に住んでいたが、一度、小学六年のとき郁子が学校を休んだとき、たまたま同じクラスの近所の女子も休んでいたため、康弘が二人の家に学校からの配布物を届けることになった。そのとき、康弘が郁子と話した最初の機会だった。

 郁子の家は、平屋のこじんまりとした集合住宅だった。引き戸の玄関を開けて、「ごめんください」と言うと出てきたのはパジャマ姿の郁子だった。その姿は、当然学校では見られなかったが、無防備で、可憐だった。学校でのそつのないイメージの郁子からかけ離れていた。

「ありがとう」と郁子は康弘がプリントを渡すと言った。「じゃあ、お大事に」と言って出て行こうとすると、「明日は学校行くからね」と郁子。

 当時、郁子の親友が基子だった。基子とは幼馴染で家が近所だったため、康弘は小学低学年頃まではよく遊んだ。男まさりのところがあって、よく男子に混じって野球をしていた。学校では学級委員になったりと先生からの信頼は厚かった。

 康弘が二人と仲良くなったのは、中一の町の祭りのときだった。その日は、子供でも夜出歩くことが多目に見られていた。康弘は友達と出歩いていたが、そのとき、たこ焼き屋のイートインスペースで郁子と基子の二人組に遭遇したのだった。二人は浴衣を着ていた。その姿は粋だった。そこで会話してから、四人で歩いたのだった。小一時間ほど、歩いた後、康弘は郁子を家まで送った。

 康弘はそのときからまた郁子と二人になりたいとばかり思っていたが、当時、郁子は他の男子が好きだった。康弘はそれを知っていたが、ある日郁子の家に電話して、デートしたいと伝えた。

 康弘にとって郁子に振られたことは挫折だった。それがきっかけで、それまでの根拠のない自信が揺らいだ。特に挫折を経験したことのない子供には重い出来事だった。途端に学校が色あせて見えた。これまでは郁子を見るために行っていたようなものだったから。基子はその中で救いの手を差し伸べてくれたのだが、それを無下にしたのは、横柄というしかないのでないか。

「こうして基子さんとバーで飲む日が来るとはね。人生何があるかわからないな」

「そうだね。だけど、私たちって不思議な関係じゃない? 何年も会ってなくても、どこか気心が知れてるから、まあ親戚みたいなものかな」

「うん、そうだね。それはぼくもそう思う。だけど、親戚ではない。幸か不幸か」

「幸か不幸か? 別に不幸ではないよね」

 康弘は自分でも何が言いたいのかわかっていなかった。

「うん。そう言えば、最近の恋愛はどうなの?」

「話が飛ぶね。そんな余裕ないよ。まだ小学生の子供がいるし、働かないと」

「そうだけど、恋愛できないことはないでしょ」

「どうかな? 誰かを好きになったのは、もう遠い昔の気がする」

 基子はそう言うとモヒートのグラスを口に運んだ。康弘はジントニックを飲み干した。何か希望がしぼんだ気がした。次のドリンクにマティーニをオーダーした。

「強いの飲むね」

「やっぱりバーでしか飲めないカクテルを飲みたいよね」

「ネット配信のときみたいに、ベロンベロンにならないでね」

「ハハ、まだ大丈夫だよ。それに基子さんと飲んでるときに、ベロンベロンになって、記憶失ったら、もったいないし」

 そう言って、隣の四〇女を見た。薄暗い中で胸の膨らみやふくらはぎの白さが目についた。

「いいこと言うね。そうよね。だけど、悲しいかな。楽しい記憶はどんどん少なくなってくよね」

「中年になると楽しいことが減るのは、普通じゃないかな。でも、ぼくよりも充実した毎日を送ってそうだけど。実はインスタ見ててね」

「ああ、あれは見栄を張ってるところがあるからね。何かインスタってそういう強迫観念があるのよね。どうしてもリア充でなければならないみたいな。その点、康くんのネット配信は脱力感があっていいよね。癒やされるわ」

「まあ、ぼくはリア充とは程遠いからね。リア充じゃないからネット配信できるというのはあるよね。つまり、守るべきものがないから、何でも言えるし、醜態を晒しても平気なんだ」

「自由とも言うでしょ」

「そうだね。相対的に自由であることは確かだ。だけど、それは自慢できることではないと思うよ。エリートでもないし、友達もほとんどいないし、何よりも一人の女性を傷つけた。その結果が自由という名の孤独なんだ」

「『自由という名の孤独か』。うまいこと言うね。わたしもマティーニにしようかな」

 基子はモヒートを飲み干すとバーテンにマティーニをオーダーした。

「そんなに自虐的になることはないよ。まず孤独ではないし、交際した女性のことは残念だったけど、DVとは違うと思うし、まあ、相手によっては仲直りできたかもしれないし、それは事故と思うしかないんじゃないかな」

「ありがとう。そう言われると、救われた気になるよ。そうだね。こうして基子さんといっしょにいるのに孤独はないよね」

「そうだよ。わたし以外にもネット配信見てる人もいるし」

「まあ、いつまで経っても過疎配信だけどね。だけど、ネット配信は確かにぼくのような引きこもりにはありがたいツールだよ。ネット配信でもしないと、ほんとにしゃべる機会もないからね。まあ、でも、対面のコミュニケーションとは全然違うけどね」

「わたしも同じだよ。普段は職場の人くらいしかしゃべる相手いない。毎回、康くんの配信にコメントしているからわかるよね」

 康弘のマティーニができた。一口啜った。この強さ、この冷たさ、絶妙の味。これこそバーの酒だ。

「美味しい?」

「うん。久しぶりに味わったよ。いいね、やっぱり」

「わたし、マティーニってほとんど飲んだことないから楽しみ」


 基子がマティーニを飲み干す頃には、康弘は次のカクテルであるカミカゼを飲み干していた。その間、彼女は四方山話をしていたが、康弘は相槌を打つだけだった。やがて「そろそろ出ようか」と言う基子の声が遠くで聞こえた。


 康弘が目覚めたとき、そこは知らない部屋だった。酔いはすっかり覚めていた。尿意を催した康弘は起きようとすると、落下の感覚に続いて衝撃があった。ソファから落ちたのだった。康弘はさらに何かにつまずいて、派手に音を立てた。「大丈夫?」と遠くで基子の声がした。部屋の明かりが点いた。眩しい。自分がいる場所はリビングだった。基子は短パンのパジャマ姿だった。康弘はその生脚に魅せられたが、まずはトイレを目指した。

 トイレから出ると、基子が康弘を待っていた。

「大丈夫?」と基子。

「うん、ここは君の家かな?」

「そうだよ。康くん、ベロンベロンに酔っ払ったんだもの。一人で家に帰れそうになかったから。タクシーでわたしの家に連れて帰ってきた」

「いや~、そうか。それはごめん。でも、だいたいのことは覚えてるよ」

 康弘はそう言うとソファーに寝転んだ。基子はすぐそばで突っ立っている。

「そうだ。タクシー代、今払うよ」

 康弘がそう言って立ち上がると、「そんなのいいよ」と基子。「ゆっくり休んで」

「ああ」

 再びソファに横になった。基子は引き戸でつながっている隣の部屋に戻った。眠気が覚めたようだった。薄明かりの中で基子の家のリビングを見渡した。基子の職場である不動産屋に着ていくための服がかかっている。有名な俳優のポスターが貼ってあった。そこには確かに一人の女性の暮らしと趣味が反映されていた。その中で康弘は異物として自分を認識した。自分がここにいるなんて、と思った。基子の家に二人きりでいることを意識すると、隣の部屋を覗いてみたいという欲望が頭をもたげてきた。基子の生脚が脳裏に焼き付いていた。そんなとき思いがけない声が聞こえた。

「康くん、もう寝た?」

「……いや、起きてるよ」

「よかったら、こっちで、いっしょに寝ない?」

「えっ、いいの?」

「いいよ」

 その提案は願ったり叶ったりだった。引き戸を開けると、部屋の中央に大きなベッドが配置されていた。基子は自分のためのスペースを作ってくれていた。

「こっちのほうが寝やすいでしょ」と基子。全身が収まらないソファよりも物理的に寝やすいのは確かだった。しかしながら、隣で大人しく寝れるはずはなかった。

「いろいろとすまんね」

「いいのよ」

 基子の隣に潜り込むと、仰向けになった。ここまできたら、行くしかない。康弘はベッドの中で手を動かして、基子の手を探した。

「ねえ、今日は楽しかったね」

 基子の手に触れ、指を絡ませると、基子は言った。

「そうだね。久しぶりに楽しかったよ。いや、『楽しかった』じゃなくて、今まさに楽しい、というかそれ以上だよ」

 康弘はそう言うと、基子の方に向き直った。暗がりの中で微笑む基子の顔が康弘を迎えた。それは考えられる限りで最高の承認だった。康弘は基子の身体へとにじり寄った。自分がどこかへ行き着いたと感じた。「夜の扉」というフレーズが浮かんだ。今まさに、その扉を開けようとしている。康弘はそんなことを思いながら、基子の唇に自分の唇を重ねた。

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