三好基子
康弘は「新潟の自宅から」というタイトルのネット配信をおよそ三か月ぶりに開始した。
「新潟のみんな、よろしく!」
康弘は視聴者カウンターが「1」になると、そう言って、引っ越しの顛末を話した。開始から三〇分を過ぎた頃、タクドラからのコメントが流れた。
「おお、何してたんだよ! 4んだかと思ってた。マジで新潟に引っ越したの?」
「そういうことだ」
「スゲー、飲みに行こう!」
「いいね」
康弘はタクドラと八月の最初の週の土曜日に飲み行く約束をした。
「例の人妻には連絡したの?」
「したけど、返事は来なかった」
「それは残念だったね」
「そうだね。まあ、これだけ離れたことだし、さすがにこれで吹っ切れるでしょ」
「新潟にも女はいるし、新潟でナンパしなよ」
「じゃあ、今度会ったときにするか」
「おお、いいね」
タクドラと会う日は猛暑日だった。夕方になっても暑かったが、都内に比べるとまだマシのように思えた。午後七時、康弘は待ち合わせ場所の新潟駅前に来た。新潟駅前でも人は多いとは言えない。町田駅の方がはるかに賑わっているだろう。ほどなくして、身ぎれいな女性に話しかけられた。
「康くん?」
「えっと……」
康弘はどこかで見た顔と思ったが、とっさに名前が出てこなかった。
「
「あっ!? なんで……?」
基子は「タクドラ」という名前でネット配信でコメントしてたという。
「てっきり同世代の男かと。騙されてた」
「ふふ、なかなかの役者でしょ」
「すごいよ。下ネタも基子さんが言ってたなんて、ちょっと驚きだな」
「それは言わないで、恥ずかしくなってくる」
「こっちも恥ずかしくなるよ。まさか基子さんにオナニーのおかずを話していたなんて」
「男の人って、皆そうなんでしょ?」
「まあ、大半はそうなんじゃないかな。……って、何の話してんだよ」
「アハハ、本当に。同窓会以来だから一〇年ぶりかな」
「そうだね。お互いに年食ったね。基子さんは若々しいけど」
基子は黒地に小花柄のワンピースを着ていた。デート風のファッションに思えた。
「ありがとう。でも、四〇オーバーだからね。いいおばさんだよ。万代シティの方にいい店知ってるから行こう」
新潟の繁華街は高校卒業して、関東に出て以来、探索したことはなかったが、子供の頃と比べて、新潟に対する見方は変わっていた。
いかにも地方らしいのがサイゼリヤが入っている駅ビルではないだろうか。子どもの頃、新潟に行くときは、午前四時台に起きて、朝一の船に乗るという、非日常的なイベントだったし、新潟は華やかでワクワクしたものだが、もう新潟市に都会らしさを感じることはないだろう。
代ゼミはまだ存続していた。近くの公園にも見覚えがあった。思えば、今から二〇数年前に夏期講習のためにこの校舎に通っていたのだ。ホテルに二週間滞在し、講義を受けていた。予備校の講義は新鮮だったが、一人でホテルに滞在していても楽しいことはなかった。勉強はあるものの、遊ぶことはできたが、当時はゲーセンくらいしか行くところがなかった。そんな中でも、同じようにホテルに滞在して、予備校に通っていた女子がいた。背中くらいまでの長い髪の、背の高い子だった。その子は他に友達がいたが、話の内容から予備校に通っていることがわかった。自分から話しかけたりはできなかった。一度ホテルのエレベーターでその子と二人きりになったことがあった。そのときは、話しかけられない自分が情けなかった。
その特徴的なカラーリングから「銀バス」と呼ばれている新潟交通のバスも当時とそう変わらないデザインのままだった。
「銀バスは変わらないね」
康弘は口に出してみた。
「変わらないね。特に佐渡の銀バスは当時のままだね。未だに小銭でしか支払えないの」
基子は万代シティのリニューアルに伴い、バスセンターも新しくなることを話した。
「あそこは暗かったからね。まあ、そこが魅力でもあるんだけど。どの街もそうなるよね。街の猥雑さが消えている」
「うん。街は明るくきれいになってるよね」
「タバコのポイ捨ても少なくなってるし、まあ、いいことなんだろうけど、ぼくは猥雑さが好きなんだよな」
「ハハハ、康くんがそう言うのはわかる」
「わかる? そうか。ぼくらは幼馴染だもんね。どういう意味で?」
「う~ん、どこか昔から怪しいところがあったから。子どもの頃、夜徘徊してたり」
「ああ、小学生の頃でしょ。夏の夜は虫取りしてたな。だけど、よく知ってるね」
「それに、中学生の頃は、ゲーセンに行ってたり」
「懐かしいな。チャリをひたすら漕いで行ったよね」
山を越えて、一時間以上かけてたどり着いたゲーセンは桃源郷だった。男子中学生にとっての最高の快楽の場所ではないだろうか。
「当時はゲーセンが最高のプレイスポットだった。だけど、女子にとってそういう場所ってどこなんだろう?」
「わたしに訊いてる? そうだね。どこだろうね。女子中学生には家と学校しかないよね。娯楽と言えば、ガールズトークかな」
「男子のこととか話してたの?」
「そうだよ。康くんのことも話したよ」
「へぇ、そうなんだ。まあ、当時は恋愛で盛り上がれたよね」
「恋愛がすべての時代だったからね。さあ、そこだよ」
徒歩一〇分くらいで店に着いた。そこは信濃川に面したビルの二階にあるイタリアンだった。間接照明で、天井にはシーリングファンが回っている。広めの店内に客はまばらだった。
二人は生ビールを注文した。
「新潟にようこそ!」
乾杯するとき、基子は言った。
「よろしく!」
五臓六腑にビールが染み渡ると、康弘は初めて基子と二人でいるという現実に驚いた。あまりにあり得ないことは、現実として認識するまでにタイムラグがあるものだ。なぜ俺はこうして基子と二人で新潟の店にいるんだろう。基子はおばさんになったとはいえ、今日はキレイな格好をしている。それは自分のためだろうか。
基子といえばどうしても中学生の頃の恋愛が思い出された。あれから三〇年以上が経つにもかかわらず、今なお当時の記憶は鮮明である。それほどまでに思春期は人生に大きなウェイトを占めているのだ。思春期の数年は、四〇代の数年に比べたらはるかに重要だろう。その頃の体験がそれ以降の人生に与える影響は大きい。康弘はずっと基子に負い目を感じていた。それは、当時基子の好意を受け入れなかったからだった。
「郁子から康くんのこと聞いたよ」
「ああ、そうなんだ」
「なんか大変だったね」
「……まあね」
「康くんが失恋でそこまで落ち込むなんて、意外だわ」
「自分でも意外だよ」
「相手のことすごく好きだったんだ」
「そうだね。でも、それだけじゃない……。とりあえず、料理たのもうか?」
二人は、バーニャカウダとグラタンとカルパッチョを注文した。
「だいたいのことは郁子から聞いてるけど、康くんから直接聞きたいな。良ければだけど」
「いいよ」
康弘はビールを一口飲んでから話し始めた。
「渚とはTinderで出会ったんだ。やりとりを始めてから一か月くらいで会った――」
康弘が渚のことを誰かに話すのは初めてだった。話している間は、映画のあらすじを話すときのように冷静さを維持できた。二年超という年月は大きな癒やしをもたらした、と言えた。
「それは落ち込むわね」
渚と最後に会った日の出来事を話すと基子は言った。
「天国モードから地獄モードへ急転直下だったからね。それも自分の過失で相手を傷つけたことが原因なのが何よりも辛かった」
「わかる。でも、相手の気持ちもわかるかな。そういうセンシティブなことは話題にしない方がいいと思うよ」
「そうだね。そういうことは相手が自発的に話すのを待つかべきだったのかも。ただ、衝突というか、ケンカみたいなイベントは避けられないと思うんだよね。その中で関係を維持するためには、ある程度備えておくことが重要かも。そうすれば冷静に対応できるんじゃないかと思うんだ。まあ、彼女のケースはどういう対応をしても修復は無理だったかもしれないけど」
「そうやって、学んでいくしかないんだよ。次に活かせればいいじゃない」
基子はそう言って笑いかけた。その助言は次があるかどうかわからない四〇半ばの康弘には空疎に聞こえた。だが、そこにあるかもしれない底意に気づいた。つまり、「次」ということで、自分との関係を仄めかしているのではないか、と。それは基子が見せた笑顔のせいかもしれなかった。自分に向けられた女性の笑顔を見たのは久しぶりだった。その瞬間、温かいものが流れた。
「そのとおりだね。ぼくにはそういう経験が足りてなかったんだよ。本当は中高時代に女子と交際していれば良かったと思うんだ」
「……中高時代か。中年になると、懐かしくなるよね。そのとき悔いのない生活を送っている人は大人になっても成功している……かどうかはわからないけど、少なくとも同窓会には来るように思う」
「そうだね。ぼくは当時、悔いの残ることをした。それが今になっても影響している気がするんだ」
「それはどんなこと?」
「それは……、ずばり君とのことだよ」
康弘は基子のことを「君」と呼ぶことに緊張した。
「あ~、バレンタインのことでしょ。あれは苦い思い出だったな。でも、仕方ないんじゃない。だって、郁子が好きだったんでしょ?」
「郁子さんが好きだったのは本当だけど、ぼくはすでに彼女に振られてたんだ。それなのにどうして断ったのか」
「郁子から聞いてたよ。でも、康くんがそんなに郁子のことが好きだったというのを知って、何か感心したな。わたしだったら、たぶん次を探すだろうから」
「でも、本当は違う理由なんだ。それはたぶん女子と交際するのが怖かったんだ。男子と遊んでた方が楽だから。それにどこか女子を下に見ていたような気がする」
「田舎では、男尊女卑がデフォルトだったからね。今でもそうだと思うけど」
「ぼくもその影響を受けてたと思う。それで女子を対等に見れてなかったような気がするんだ」
「でも、郁子のことは好きだったんでしょ?」
「……そうだ。確かに。郁子さんは勉強もできたし、可愛かったし、彼女を好きだった奴は何人かいたと思うよ」
「じゃあ、郁子以外は見下してたの?」
「そうかもしれない」
「ひどいね」
基子はそう言うと、ビールを煽った。
「まあ、子供の頃の話だから、多目に見てくれよ」
「それも一理ある。だけど、わたしは、子供の頃の康くんしか知らないし……」
「そうだね。ぼくも同じだよ。ただ、高校卒業してからすで四半世紀が過ぎた今、お互いに変わった部分も大きいと思うんだ」
「うん、そうだね。長い時間が過ぎたよね。わたしもいろいろあったけど、今のところ、健康だし、人生まだまだこれからかな」
康弘は郁子から基子の話を多少聞いていた。離婚したこと、子供は元夫と暮らしていること、今は一人暮らししていること。
「郁子さんから基子さんのこと聞いたよ」
「そう。郁子にはFBから連絡したんだってね。中学卒業以来会ってなかったんでしょ。すごいね」
「彼女が精神科医になったのは知ってたし、彼女の助言を期待したんだ」
「それで? いい助言を得られた?」
「いや、特に。『時間が経てば楽になるよ』とだけ。だけど、彼女と話せたのは大きかった。医師として活躍している人が同級生にいるというのは誇らしいし、自分が死んだら、彼女も多少悲しむだろうから、死ぬのはよそうって思えた」
「なるほど。やっぱり誰かと話すのは大きいよね。わかる」
頼んだ料理が届いた。基子は夫との離婚に至った経緯を話した。どこかで見聞きしたような話だったが、当事者にとっては切実なことだろう。そうした不幸は結果でしかない。結婚した当初は希望に溢れていたはずだ。結婚が人生における一つのメルクマークであるのは間違いないだろう。しかし、そのあり方はあまりに画一的ではないだろうか。家族が決められたあり方しか許されないことが息苦しさを生んでいるのではないだろうか。
ひとしきり身の上話が終わると、ほとんど少女時代しか知らない基子が恋人に、妻に、母になった過程に感慨深いものを感じた。加速された時間の感覚があった。それはどちらかといえば平凡な人生なのかもしれない。しかし、それについてとやかく言うことはできないだろう。たとえば、渚はキャリア面で成功した女性であるが、勝ち負けとかはないはずだ。
康弘は話を聞きながら、ヒラメのカルパッチョを皿に取り分けた。
「いろいろあったんだね。結婚、出産、離婚か。ぼくには真似できないな」
「子供を産んで、女性としての役目は果たした感はあるね。さあ、食べようか」
「女性としての役目」というフレーズに康弘はもやもや感を感じた。やはり女性にとって出産へのプレッシャーは強いだろう。そればかりは男にはわからない。男にとっても自分の遺伝子を残すことは一つの賭けである。つまり、永続性が有限な生において賭けられているのだ。それができるかどうかで人生は大きく変わるだろうし、死にゆく身としては一つの達成である。女性は初潮が来たときから常に準備しているし、男性もまた精通の時点から生殖能力を獲得するが、そこにはやはり非対称性があるだろう。女性は自らの体内において新しい生命を宿すという違いが。そして、今のところそれだけが人類が再生産する方法である以上は女性の生殖能力への期待は大きい。その中で子供を産まない、または産めない女性は、肩身が狭い思いをするかもしれない。無職男性がそうであるように。
「康弘くんはこれからの人生の目標って何かある?」
料理を「美味しいね」と言ってひとしきり食べた後、基子は言った。「人生の目標」というフレーズは、もはやかなり色あせていた。若い頃の野心を完全に手放したわけではなかったが、もはやそれに賭けることはできなかった。そのとき、人生の目標とは何なのだろうか? 女性との愛に満ちた関係だろうか? それは諦められない。しかしながら、それを目標にすることはできない気がする。なぜなら、かりに愛を獲得できたと思ったとしても、人生の目標はやはり残るだろうから。しかし、康弘はそれしか思いつかなかったし、それは基子との関係を進める足がかりにする上で有効であると思えた。
「それは、女性との関係だよ。同棲できる人を見つけたい」
「そうなんだ。だけど、同棲したら、風俗は行きづらくなるんじゃない?」
康弘は基子のその発言には文句を言いたかった。確かにネット配信では風俗に行った話をしたことはあるが、しかし、決して日常的に風俗に行っているわけではなかった。
「かまわないよ。女性の身体は好きだけど、もし相手の女性との間に親密な関係がなかったら、魅力は半減するから」
「ほんとに? そう思ってるんだ。男の人って好きじゃなくてもHなことできるし、したいもんじゃないの?」
「……それはそうだけど、でも好きな人とするのとは違うよ」
「そうなんだ」
基子はそう言うとフフと笑った。それは謎めいた笑みだった。その意味を追求することもできたが、康弘は何も言わなかった。
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