二年後
二〇二〇年五月一日(金)。
午後六時にカット二千円の自由が丘にある美容室に行った後、康弘はその近所にある焼き鳥屋に入った。およそ自由が丘らしからぬ赤ちょうちん系のこの店は、およそ二年前に渚と来て以来だった。普段行っている日吉の美容室が新型コロナの影響で閉店中のため、自由が丘の同系列の美容室に予約を入れたときから、この店に再訪することを決めていた。
カウンター席に着いた康弘はホッピー白の他、冷奴、もろきゅう、煮込みというメニューから始めた。コロナで自粛中にもかかわらず、康弘は毎週末、どこかの店で飲んでいた。今やそれだけが康弘の日常の楽しみと言っても過言ではなかった。しかし、それが積極的なものではないことを認識していた。一人よりもカップルが何かと優遇されるのも一理あるように思えた。二人でいることは、一人でいるよりも無理がある。しかし、だからこそ、そこにはやはり称賛に値するものがあるのではないだろうか。
しばらくすると、一つ空けた隣の席に面識のあるカップルが来た。二人は、この店の二軒隣の店で輝明と飲んだときに同席した
康弘が最後にこの店に来たときは、テーブル席で二人で飲んだのだった。会話の内容までも覚えていた。その日は、谷川俊太郎展を見たが、ラストで、何人かの文化人がさまざまな質問に答えるビデオが流れていた。その中に、「前世は何だったか?」という質問があった。渚はその質問を康弘に向けた。康弘には難しい問いだった。まるで考えたこともなかったからだった。しかし、渚は何かしら答えが欲しくて、店で再度その質問を向けたのだった。渚自身は「海賊」と答えた。
「わたし、海が好きで、このカラダでしょ」
渚は筋肉質のたくましい身体だった。それは納得できる答えだった。康弘にそういうものがあるか、といえば思いつかないのだった。子供の頃から夜型で、小一の頃から水泳の授業の前の女児の着替えを注視しているようなスケベだった。そんな男にどんな前世がありえるだろうか? およそ見当もつかなかった。康弘はしばらく考えてから答えた。
「前世は夜光虫かな。夜光るから。それに海に生息してるし」
「海つながりか。考えたね」
渚にはまあまあの答えのように受け取られたように思えて、康弘はホッとした。考えさせられたが、事務的ではない会話は十分に楽しいものであった。もっとも会話が楽しいかどうかは会話の相手と不可分であるが。果たして好きでもない女と同じ会話を持って楽しいかどうか疑問である。
康弘は最初のドリンクを飲み干し、注文の品が残り少なくなると、「中」と焼き鳥をオーダーした。こうした焼き鳥屋での飲食は何度もしてきたことだったが、やはり今回は勝手が違った。傍目にはありふれた飲兵衛の中年男性に見えるとしても、決して気楽な一人飲みを楽しんでいるわけではなかった。この店に入る前から、予想していたことだった。この店に入ることは、過去の自分と向き合うことを意味していた。
渚のことを忘れられるわけはないし、今のこのとき、この場所で彼女のことを思うのは仕方がないが、仮に渚が今、この店にいたらどう思うだろうか、と康弘は考えた。たとえば、たまたま友達とこの店に来たら、渚は俺のことを友達に話すだろうか? あるいは、そもそも俺とこの店に来たことすら忘れているかもしれない。渚にしてみたら、俺との交際が黒歴史ということは十分にあり得ることだ。
渚は出会った瞬間から異様にテンションが高くて、まるで最初から恋人のようだった。最初に会った日にHUBで飲んだ後に行ったクラブでは、早くもキスしたり、胸を触ったりしていた。まるで自分が映画スターか何かになったような気分だった。そういうことはこれまでの康弘の人生でなかった。これまでの女性関係の失敗を打ち消すような考えられる限りで最高の出来事だった。
しかし、自分と同じ体験をしてももっと冷静な人もいるだろう。おそらくは日常的に不特定多数の女性とベッドインしている男なら違うだろう。嬉しい出来事ではあるだろうが、その後、日常生活の中でその情景を何度も思い浮かべたりするような特別の出来事ではないはずだ。また、性的魅力がある女性にとっても同じことが言える。渚にとって、自分との性行為は、必ずしも特別なことではなかった可能性がある。
いずれにしても、性行為に過剰な意味を見出すのは女性関係に不慣れな男だ。彼にはそういう特異な出来事を処理できるキャパシティがない。恋愛の手練手管に習熟したある女子が言うには、「オタクは笑顔で挨拶しただけで落ちる」そうだ。そういう人種に最初からキスやボディタッチさらにはセックスを許したらどうなるだろうか? その女のことで眠れなくなるのではないだろうか。そういう状態は危険である。日常生活に支障をきたすかもしれない。ちょうど貧乏人が大金を手にして破滅するように、女の愛や身体によって破滅への道を進む非モテ男。そうだとしたら、非モテ男には救いがない。
焼き鳥が届いた。こうして、一人で飲んでいるのは自分と同じ中年男性ばかりだった。こういう情景を見ると、酒こそが非モテ男の唯一の救いなのではないか、と思えた。自分もワン・オブ・ゼムなのか。そうは思いたくない。自分には小説創作という救いがあるはずだ。渚のことも小説の形で清算できる。二年がたった今、機は熟した。もし今、渚がここに来たら、それほど小説的な出来事はないだろうが、そうなったら、もはや小説などどうでも良くなる気もしなくもない。
しかし結局、渚は焼き鳥屋に現れなかった。カップルは先に店を出たが、店を出るとき、こちらをチラ見した。康弘は焼き鳥屋を出ると、地下にあるバーに向かった。康弘は渚との最後のデートとまったく同じコースを辿っていたのだった。
バーは営業していなかったので、三軒目のアイリッシュパブへと向かった。時間は二〇時を過ぎていた。店内はまだガラガラだった。
康弘は立ち飲みテーブルでギネスを飲んでいた。ここは渚とのカップルとしての未来が潰えた場所だった。たったの一つのセンテンスで、ついさっきまで仲良さげなカップルだった二人がバラバラになってしまった。それはまったく想定していないことだった。言葉にそれほどまでの影響力があるとは。それまでは、楽しく飲んでいたが、数年前に出産した渚の姉の話から康弘は渚が流産したことに触れたのだった。「なんで流産したの?」と康弘が訊いたが、渚は無言だった。康弘は「飲んでたんじゃね?」という不用意な問いかけをした。次の瞬間、渚の怒りが閃いた。「バカじゃないの! 妊娠してるのに飲むわけないでしょ!」という罵倒とともに二羽の猛禽のような眼差しが康弘に襲い掛かってきた。事の重大さに気づいた康弘は謝ったが、彼女は「わたし帰る」と言って店を出た。康弘が会計を済ます間に、彼女はいなくなっていた。康弘は大井町線のプラットフォームに彼女の姿を認めた。康弘が歩み寄ると、彼女は「来ないで、一人にして!」とはっきりと聞こえる声で、近づく康弘を制止した。康弘は語気の強さに気圧された。そこには、明確な意志が感じられた。今や康弘は選ばれた男ではなく、潜在的に加害性のあるその他大勢の男だった。
康弘はギネスを飲みながら、テーブル席の若い男女のカップルを見ていた。男が身を乗り出し、熱心に話し込んでいる。女の表情にはどこか覚めた雰囲気があった。まだ恋人同士ではないのかもしれない。しかし、仲良さげなカップルも盤石なものではない、と康弘は身に染みて感じていた。自分と渚だって、傍目にはそう見えたときもあっただろうから。そのときはお互いを糧としてハイな気分になれた。若い頃に特有の万能感やナルシシズムがあった。青春へと逆戻りした気分だった。不遇な青春時代を取り戻したような。それは他人同士となった今でもお互いにとって、稀にしか過ごせない至福の時間だったはずだ。康弘はあれ以来、同じような時間を誰かと過ごしたことはなかった。渚もまたそうだとしたら、どうだろうか? まだTinderに彼女はいる。LINEもブロックされていない。あれから時間が経ち、突発的な失言の重みが消え、最良の時間の価値に気づいたとしたら。
自宅に戻った康弘は、週末の夜の日課になっているネット配信を開始した。内容は飲みながら、しゃべったり、YouTubeを見たりするというものだった。ネット配信だけが康弘が誰かとつながることができる唯一のチャンネルだった。ネット配信を始めてから一年以上になる。いまだに過疎配信だったが、固定のリスナーはいた。
「ばんわ~」
いつものように康弘は今日はどこで飲んだかといった、今日のこれまでの行動を缶チューハイを飲みながら話していたが、開始後十分くらいにコメントしたのは「タクドラ」というコテハンの常連リスナーだった。タクドラが新潟市在住の四〇男でタクシー運転手という以外は何も知らなかったが、康弘がここ一年以内で誰よりも言葉を交わしている人だった。
「自由が丘なんて珍しくない?」
「美容室が自由が丘だったんだ。何の因果か知らないけど――」
康弘は渚との最後のデートのことを話した。
「ああ、あのアッパークラスの人妻ね」
康弘は別れの顛末を除き、ネット配信で渚のことも話していた。
「まだ未練あるんけ? その人よりも基子さんに連絡してみなよ。まだJさんのこと好きかもよ」
「でも、新潟住みだからなあ」
「新潟に移住すればいいじゃん」
新潟に移住というのは、十分にあり得る選択肢だった。実際、地元・佐渡島の同級生で新潟に住んでいる人は多い。
「……そうだな。渚に連絡して、より戻せなかったら、移住もありかな」
「マジで?」
「うん」
「新潟に来たら、飲みに行こう」
「いいね」
しかし、康弘はそれほどあてにしてはなかった。タクドラはネット配信内のリスナーにすぎず、個人的にやりとりしたことは一度もなかったからだ。
「いい店知ってるよ」
「寿司屋がいいな」
「うんうん。安くてうまい店、知ってる。基子さんも呼ぼうよ」
「それはどうかな」
「連絡してみなよ」
「う~ん、新潟に移住したらな」
酎ハイの缶が軽くなってきた。康弘はしばらく最近NetfliXで見たドラマの話をした。その間、誰からもコメントはなかった。それから、YouTubeの飲み歩きの動画やら見た後、ネット配信を終了した。
時間はまだ二三時前だった。康弘は何日ぶりかに基子のInstagramを見た。一週間前に更新されていた。「ゲットしました! 海に行くときに履きます」というメッセージとともに白いサンダルの写真が上げられていた。そういう買い物の写真の他、子ども、飼い猫、食べ物の写真など、いわば生活の一端を伺わせる写真だった。基子は自分が見ていることを知らないだろう。フォローして、メッセージを送ってみるのもおもしろいかもしれない。確かに基子とはどこか付き合えるような気はする。生活レベルは近いだろうし、それに子供時代を知っていることが大きい。基子にかかわらず、新潟への移住は現実的な選択肢ではある。それにより、渚のような女性と出会う機会はなくなるだろう。しかし、出会えても付き合える相手ではないとしたら、東京に残る理由はほぼないのではないか。渚にLINEを送ることは、最後の賭けのようなものだ。彼女は地方在住など考えてないだろう。だから、彼女と再びつながれたら東京に残る理由ができる。
すでにLINEのメッセージを考えてあった。最初は「久しぶり。元気?」でいいだろう。返事が来たら、近況を聞いてみよう。
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