PoV方式-3 ****/09/2■

 少し昔の話をしよう。私がまだ大学3年生だったころ、私はサークルや授業の合間に聞こえてくる大学裏手にある“出る”廃屋の噂に興味を惹かれていた。その廃屋は昼間も雨戸が締め切りとなった二階建ての民家であり、夜な夜な家の中から何かが金物を叩く音とうめき声が聞こえるのだという。

 今になってみれば、引きこもりの家族でも抱えている複雑な事情のある家庭なのだろうと想像をめぐらすところだが、当時、学内にはそんな想定をする学生はいなかった。いや、それは流石に誇張かもしれない。そういったまともな思考の持ち主は、この噂に関わらなかったということだろう。

 流れている噂のなかには実際に敷地にいって、幽霊を見たという目撃談まであり、ある日、私はその真偽を確かめるために自分も件の民家に向かった。喜び勇んで家を探し、開かない門扉を無理やり乗り越えようとしたときに、“出る”家に帰宅した住人と鉢合わせした。

 門扉にまたがり敷地に乗り込もうとする登山用ジャンパーにリュックを背負った不審な女。それを目にして両目を見開き口を半開きにして立ち尽くす住人の顔をみて、私は生まれて初めて「穴があったら入りたい」という諺を使いたくなった。

 幽霊どころか普通に住人が住んでいる。噂に騙されたという気持ちと、確かめもせずに他人の家に不法侵入したという負い目が身体を火照らせる。しかし、門扉にまたがって不法侵入間近の不審者の話など誰も聞いてくれないだろう。そう思って、門扉にかけた足を外し、住人の前に立って丁寧に謝罪の言葉を述べた。

 通報されてもやむを得ないと思ったが、どういうわけか住人は声をあげたり通報することをせず私を家に招いた。

 その後、私は彼から、見知らぬものにネットを通じて家を心霊スポット扱いされたこと、その後は日夜不審者が敷地に侵入したり無断で家を撮影していくから窓を開けられなくなり、雨戸を締め切った生活をしていること等、彼の身にまつわる様々な話を聴くことになった。

 家主の困り果てた話を聴く私自身も、彼を悩ませる不審者であった。朝を迎え、家を後にする私の胸にはそのことが深い後悔としてこびりついてしまった。

 以来、私は“出る”建物の噂を聴いたら、事前調査を鉄則にしている。


 とはいえ。建物の事前調査というのは素人には案外と難しい。

 例えば、ハーフムーンタワーのように商業施設として有名な建物であれば、その構造等についてWebページを通じて調べることも容易だ。

 しかし、道寺山ビルは、街中に数多くある雑居ビルの一つに過ぎない。情報が少ないのだ。登記を調べれば登記上の簡易的な図面は見ることが出来るのだが、金曜の夜中では登記の取得は難しい。確認できるのは月曜日を迎えてからだろう。

 それに、そもそも、例のビルが道寺山ビルという確証はない。道寺山ビルの資料を集めるべきか、手元の動画との整合性を検証すべきか。まずはその手順から悩むことになる。


 手元の情報を整理するという意味では、映像も難問である。

 例えば入店しているテナント。撮影班は正面入口ではなく、側面に設置された外階段からビルに入る。階段の横には縦に長く各階の入居テナントを示す表札が供えられているが手振れが酷くてテナント名は読めない。辛うじてわかるのは縁取りが有名なドラッグストアチェーンくらいだ。

 撮影班は3階からビル内に入り、5階で引き返すまでの間にいくつかの部屋の前を通り、また室内を検分しているのだが、カメラには肝心の表札などが映っていない。実際の場所との関わりを持たれないための配慮だったのだとすればしっかりしているが、映像技術の未熟さ故の結果にもみえる。

 ドラッグストアのホームページによると確かに道寺山ビル2階にはテナントがあった。開店は4年前。営業時間は9時から19時。毎週水曜日が定休日。

 外階段の映像は夜だ。撮影班が2階は真っ暗で見えないと話しているシーンがあるので、撮影現場が道寺山ビルだというなら19時以降の撮影だった可能性が高い。だが、例えばそれが丑三つ時かと言われると疑わしい。

 外階段に映るハーフムーンタワーには明かりがついている。開設当初から中層、15階以下が22時閉店のハーフムーンタワーが半月状の建物に見えているのなら、中層以下が営業中のはずだ。。

 この映像が19時以降22時までに撮影されたのであれば、映像と道寺山ビルの状況は整合する。つまり、道寺山ビルが撮影現場であったという可能性が高くなる。

 もっとも、私はこの推測に自信が持てていない。理由はいくつかある。

 例えば、道寺山ビルの立地。ビルがあるのは飲食店街の裏手だ。19時から22時の間といえばどの店も食事時で賑わっていておかしくない。飲食店街と道寺山ビルのある裏通りを縦断する道はそのまま同地区の住宅街へと繋がっている。食事を終えて帰る通行人も多く利用することだろう。

 ところが、ビルの外を映した映像には工事作業員以外の人間が映らない。ビデオは大学のサークルで見つかったものなのだから、そのサークルの大学生が撮影したと考えるのが自然だが、大学のサークルが通行規制などできるものか疑問が残る。

 何しろ、このビデオはカット割りがない初めから最後まで流し撮りされたものなのだ。つまり、撮影班はビルの周辺に人がいないタイミングでビルに入り、偶然にも人がいないタイミングでビルを出てきたことになる。少々幸運が過ぎる。

 道寺山ビルの内部の映像についても引っかかる。撮影班は終始先行する男女2名を追うカメラマンの視点で撮影されている。その他に2名メンバーがいて、計5人の懐中電灯が常にビル内のあちらこちらを照らしている。2階のドラッグストア近辺が暗いのは閉店後に訪れたという説明がつくとして、3階、4階のテナント区画、更には5階の住居区画の廊下が真っ暗なのは違和感がある。

 19時といえば仕事を終えて皆が帰宅している時間だと言うのは労働環境の良い職場か、却って朝が早い職場に限られるように思う。どこかの廊下に明かりがついている、テナントの人に遭遇することがないとは考えにくい。

 やはり、たまたま構造が似ていただけで、撮影場所は道寺山ビルではない。そんな考えもよぎるが、それはそれで違和感がある。

 取材先で道寺山ビルのことを聞いた偶然を信じたいのか、言語化できない何かがあるのか、自分のことなのに判別が難しかった。


 考えがまとまらず、同じところを堂々巡りする。気づけばパソコンのデジタル時計は2時を過ぎていた。これ以上は時間の無駄だ。空になったコーヒーカップを片付けようと思案していると、チャットソフトのログイン音が鳴った。

 オンラインの表示になったのは、新聞社に勤める知人、山路行實(ヤマジ-ユキミ)のアカウントだ。ほどなく、卓上に置いた携帯が震える。

「もしもし。お、やっぱり起きていたな」

 少し気怠い、それでいて通りの良い山路の声が携帯から響く。

「普通チャットで話しかけるものじゃない? 飲み会の誘い?」

「こんな夜中に女性を飲みに誘うほど爛れていないよ」

 確かに受け答えはしっかりしている。私は、携帯を持ったまま台所へと向かい、コーヒーを淹れる準備を始めた。

「篠崎、また飯野と妙な話を調べているんだって? 道寺山ビルの噂なんてどこで拾ってきたんだよ」

 道寺山ビルの噂。飯野の名前が出たから、てっきりビデオの件を指していると思ったが思いもかけない単語が出た。。

「飯野から聞いたの?」

「いいや。この前、2年前に道寺山ビル周辺を取材してただろうって聞かれたんだ。あの辺りでお前たちが興味を持つなら道寺山ビルしかないと思ったが、違うのか?」

 彼女が言っていた当時のビルの様子を知る知人とは山路のことだったのか。彼の口ぶりからすると、噂については直接飯野には伝えていないのだろう。飯野も映像の撮影場所が絞り込みたかっただけだから深くは尋ねていないはずだ。

「当たらずとも遠からずってところだけれど、あのビルってそんなに噂があるの?」

「色々と不運が重なるビルではあるな。半年前にはテナントも入居者も全部いなくなって廃ビルになった」

「廃ビルって、飲食店街の真裏ならドラッグストアの需要はあるでしょう?」

「悪い。話の腰を折るんだが、ドラッグストアは何を買いに行く場所なんだ?」

「二日酔いに向けた痛み止めと晩酌用のつまみを買うところ、かな」

「ドラッグストアが聴いたら悲しむぞ。それにあの店は元々つまみを買って帰るには閉店が早い。まあ、それでも篠崎の言う通り、ビルに最後まで残っていたのはドラッグストアなんだが」

「随分出入りが激しい建物みたいに聞こえるんだけど」

 山路は暫し言葉を濁した。こちらが道寺山ビルのことをあまり知らないことがわかって、どこまで話すべきか躊躇っている。そんな印象だ。

「まあ、いいか。不動産業者の間じゃテナントも住人も半年たたずに出ていくビルって有名だったんだよ。長続きしていたのはドラッグストアともう一つ二つくらいの事務所くらいなものだ」

「迷惑な住人でもいたの? 飲食店街の裏だから多少うるさいとは思うけれど、借りる人たちは初めからその辺織り込み済みでしょう」

「そういう話ではないんだよ。退去の理由なんてのは人それぞれなんだが、あのビルは出るんだよ。誰もいないところで声がする。夜中に共有廊下を駆けまわっているという話が後を絶たなかったらしいらしい」

「それって、壁が薄いとか」

「前から言おうと思っていたんだが、ホラー好きなのに現実的な感想が先に出る癖は直したほうがいいぞ」

 山路の軽口はさておき、現実に建物内では様々な音が反響する。隣室の声だと思っていたら階下の声だった。そんな現象がないとはいえない。共同利用なのだ。壁が薄ければ音は抜ける。

「オーナーは構造ではなくて不審者を疑ったんだ。ドラッグストアの他に会社のオフィスも幾らかあるから空き巣が物色しているという見立てだ。だが、共有部分につけた監視カメラは、不審な音を拾っても人影は映さなかった」

 人が映らないのに、足音や声だけがする。山科さんから聴いた話と同じだった。

「それはいつ頃の話?」

「2年前には既にあったな。当時、オーナーがビル中の防犯カメラを取り外したという話を聴いた」

 話の機序がよくわからない。

「ちょっと待ってくれ。確かパソコンにメモが……あった。道寺山ビルで物音が話題になったのはドラッグストアの入店直後かららしい。ドラッグストアの以前2階には古本屋が入っていたがその頃はビル内で物音などしなかった。ちなみにドラッグストアが開店したのは4年前」

 件のビデオの撮影は2年前。やはり噂を聴きつけて撮影場所に選んだのか。

「でも、ビデオを取り外したってどういうこと。ドラッグストアができた直後から変な物音がしたっていう話だとすると、もしかして音の原因はドラッグストア?」

「オーナーは音の正体が全く分からないから防犯カメラを取り外したんだ。だが、まあ原因がドラッグストアというのは考えにくい。ドラッグストアができたからってあんな音がするわけがない」

 それは思い切った判断だ。共有廊下を映すカメラは防犯上重要だ。そして、今の話には重要な情報が含まれていた。

「ねえ、山路はどうしてそんなに道寺山ビルの情報に詳しいの」

「そりゃ当時たまたま取材先が近かったから」

「そうじゃない。あんな音って言ったじゃない。道寺山ビルの音を聴いたことがある人の話し方だよ。もっと細かく事情を知っているんじゃない?」

 電話の向こうで山路がため息をついた。そしてそのまま笑い出す。

「篠崎、やっぱりお前はこういう話を聴きだすのが上手いよ。なんでグルメレポートなんてやってるんだ」

「突然何?」

「いや、いいんだ。飯野はそういう切り口で尋ねてこなかったからな。察しの通り、俺も道寺山ビルの音ってやつを聴いたことがある。オーナーの設置した防犯カメラからではないんだが。2年前にマンションの外壁修繕作業中に作業員が転落死した事故が報道されたことを覚えているか?」

 作業員の転落事故? いきなり言われても思い出せない。記事を検索するのより早く、山路はチャットルームにリンクを張り付けた。

「ねえ、こういう使い方するなら電話じゃなくてチャット使えばいいじゃない」

「話は最後まで聴けよ。飯野みたいに結論を急ぐと損をするぞ」

 山路が飯野のことをそういう風に見ているとは意外だった。ここまで来て話の続きを打ち切られるのは惜しい。私は山路の言葉に従って記事を開いた。

 記事は4年前に道寺山ビルの向かいに建つマンションで外壁工事中の作業員が転落死した案件を扱ったものだ。原因は安全帯をつけずに高所作業をしていた際に、強風に煽られてバランスを崩したものであるとして、作業委託を受けていた建築会社が遺族から訴訟提起された。

 訴訟において、建設会社側は安全管理には問題がなく、死亡した作業者自身が何らかの意図で安全帯を外したのだと主張した。会社側の主張の根拠になっていたのは共に作業していた作業員の証言であり、訴訟開始当初は会社側が優勢だったらしい。ところが、遺族側が提出した防犯カメラの映像が決め手となり作業員たちの証言の信用性が覆され、会社側の逆転敗訴となった。ちょうど2年前のことだ。

「興味深いだろう。ビルの外壁修繕中に転落した人間の事故状況を映した防犯カメラがあって、共同で作業していた作業員の証言を覆すものが映っていた。屋上の作業風景でも映っていて、安全帯をつけずに作業を始めた様子が映っていたとかならまだわかるが、そういった映像ではなかった」

 山路が傍聴したのは、作業員たちの証人尋問期日。作業員たちの話は非常に明快で、彼らは誰もが転落した同僚と装備を点検して作業を始めており、同僚の装備に不備はないと語った。ところが、その全員が遺族側の弁護士の反対尋問で提示されたたった一つの証拠で言葉を詰まらせ、動揺を示したのだという。

「嘘を指摘されて詰まったのとは違う。彼らは装備を点検したという発言は撤回しなかったし、全員そろって、こんな映像があるはずがないと訴えたんだ。結局、弁護士から、なぜ映像がないと考えたのかと追及されて説明ができなかったことが、彼らが会社ぐるみで事実を隠蔽しようとしていたという裁判所の判断に繋がった」

 当時、山路が確認したところによれば、遺族側の提出した映像とは転落したビルの向かいに建つ道寺山ビルの防犯カメラ映像だった。偶然、外階段に設置されていたカメラの映像が事故を捉えていたらしいが、設置場所も、向かいのビルが映っていたことも、傍から聴いていても疑わしい。映像があった以上、カメラは設置されていたのだろうが、従業員たちが驚き気色ばむのも理解できる。

「そこから先は情報網の使いどころというやつでな。たまたま道寺山ビルのことに詳しい知人を見つけた」

 山路の話が急に曖昧になったがここまで聴けば察しの悪い私でも予想はつく。

「そのビル、幽霊騒ぎ以外にも面倒な入居者がいたんじゃない?」

「なんだよ、藪から棒に」

「社会部の記者ではない山路が、裁判所で傍聴した事件の証拠に興味を持ち取材を始める。そんなシチュエーションが起こるかどうか考えただけだよ。当時道寺山ビルにはフロントが入っていたんじゃない。それも、山路の知り合いが勤めているような。道寺山ビルについて詳しい事情が聴けたのも、そのフロント企業の人たちからだから、チャットじゃ話せない」

「篠崎はそうやって指摘をするからな。夜中だし電話は誰かが聴いてるわけじゃない。お前の読み通り、道寺山ビルには当時D組のフロント企業が入っていた。表向きは調査会社を装っていて、オーナーも組関係だとは知らなかったはずだ。

 事務所には高校の同級生が詰めていてね。運よく色々と話を聴けたんだよ」

 山路の学友には暴力団関係者が多い。曰く、たまたまそういう層が多い高校で、彼自身は興味がなかったため彼らと同じ道ではなく、記者を選んだのだという。もっとも、彼らにとって記者である山路は情報収集に都合が良く、山路にとっても彼らの持つ裏の情報網は都合が良い。

 私は偶然取材先で山路の人間関係を知ってしまったのだが、彼は同僚にすらそのことを隠している。無論、山路は飯野にもそのことを伝えたことがない。

「あの調査会社も撤収しているし、お前たちの趣味に使われる分には話したからって害はない。だが、余計なところに情報は流さないでくれ。面倒は避けたい」

 もちろん。これはあくまで私、篠崎ソラの一個人の興味に過ぎない。私は山路のくどい確認に、二つ返事で応じた。パソコンの時計は既に3時を回っているが、不思議と一時間前に比べて頭がさえているような気がした。

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