489話 有頂天動その9

 実のところ、ヒウィラもナヨラに大きな顔ができるほど戦闘経験を積んでいる訳ではない。


 もともと魔王の娘……の影武者として育てられていた彼女は、その美貌そのプロポーションを崩さないよう、必要最低限の護身術くらいしか教わっていない。何かあっても矢面に立つことはなく、血腥い経験はそれこそユヴォーシュと行動を共にするようになってからだ。そしてユヴォーシュと旅をしている間は、そういう荒事は彼が率先して片付けてしまうからやっぱり経験豊富とは言い難い。


 彼女は自分の胸に突き立った旗を、まず抜くところから始めてしまった。


 これが戦闘経験バリバリのユヴォーシュや《年輪》のヴェネロンだったら、旗を掴んで獲物を封じ、先に担い手たるナヨラを排除してから落ち着いて治療をしたことだろう。引き抜いてしまえばナヨラにも冷静になるだけの猶予を与えてしまう。事実、彼女は飛び退いて体勢を立て直し、ヒウィラが心臓の傷を治療しようとしているところを再び急襲した。


 これでは二の舞、今度は心臓ではなく脳狙いといったところか。ヒウィラはどうするべきか考慮する。心象の発露、例えば高揚による弾けるイメージの具現化などでは、おそらくナヨラのあの旗に巻き取られてカウンターされるだけだろう、と考える。ゴリ押しで突破できるかもしれないが、出来ないかもしれない。後者だったときに支払う代償はもうない、これ以上失血すれば意地だけでは立っていられないから、もっと別の手を採る必要がある。


 ───となれば、やはり、か。


 ヒウィラは己の周りに花の嵐を展開するのを止めた。敵はこちらの《信業》を逆手に取ってくるらしいから、徒に垂れ流しにしても損しかない。それなら内に蓄えて、一瞬の爆発に賭けるまで。


 旗を低く構え、真っすぐに突っ込んでくるナヨラ・ユークリーの鋭い視線。


 それを受け止めて、ヒウィラは無手無策に思える自然体で走り出す。


 ───速い、と思ったのはナヨラ。踊るようなステップは見惚れそうになる流麗さで、どうやら先手は譲るしかないらしいと悟る。構わない、彼女の《信業》であれば見てからイルキシャルで巻き取れる。想念に敏感であるということは、彼女の意識するよりも先に脊髄反射で対応できる、ということだ。ナヨラの得意分野で攻めてくるなら、多少の負傷は覚悟の上で今度こそキッチリ命は奪っていこう。


 旗を握る腕に要らぬ力がこもりそうになるのを、落ち着いて肉体に任せる。大丈夫、無心になれ。


 無心に、無心に───


「……え、あれ?」


 二人して愚直に突進する、その圧縮された時間の中でナヨラは自分の口から場の空気にそぐわない間抜けな声が漏れたのを知覚する。だってあれだけ計算していたのにこんなことってあるだろうか、これはあんまりじゃないだろうかと思う。


 ───馬鹿にしてる。


 ただただ身体強化のみでこの私ナヨラを倒せると踏んだのか。とても格闘術など修めているようには思えないくせに、思い上がったなら思い知らせてやろう。《付和雷同なるイルキシャル》の一撃をその身で味わえ。頭に振り下ろして股まで裂いてやる。


 旗が届く距離に到達した。


「しゃああああああッ!」


 裂帛の気合と共にイルキシャルが風を斬る。ここから何かするのはもう間に合わない。この愚かな《悪精》の女は、結局何の手立てもないまま突っ込んできたらしい。つまらない幕切れだったな、と既に気を緩めているナヨラは、ふと、な想念の流れを感じてそちらを見た。


 ───剣が、

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