487話 有頂天動その7

「間に合わなかった───」


 未明の空が、もはやもともとどういう色をしていたかもわからない暗色に滲む。かつて《暁に吼えるもの》が前線都市ディゴールを中心として展開した悪神招来の大儀式、よりも数段規模の大きい───いいや、この世界でこれ以上の規模の儀式魔術など成し得ないだろうと誰もが理解できる究竟式。


 世界の脱皮、を超越したの儀。


 《大いなる輪》の廻転の果て。


 ユヴォーシュに何とかするよう頼まれていたものを、みすみす達成させてしまった───取り返しのつかない失態に胸中は空模様と同じように曇る。


 そこを、ナヨラは見逃さなかった。




 《付和雷同なるイルキシャル》。ナヨラ・ユークリーが担う《真なる遺物》。その神髄は、という一点に尽きる。どんな使い方をしても、どれだけの猛攻に晒されても、決して折れず曲がらず欠けない。そのくせ遣い手が望めば並みの旗竿程度にはしなるという、癖のないプレーンな───ある意味で最も癖の強い───遺物なのだ。


 それを、ナヨラはとして扱う。


 他者の想念を受け流し、ひっかけて操り旗布の如くにする。その繊細にして大胆不敵な業を支えるのが、どれだけ無碍にしても文句ひとつ言うことなく従うイルキシャルなのである。


 後の先の戦型、相手が強い想いをかければかけただけ破壊力を増すカウンターの戦法を得意とするナヨラが、しかしこの隙は逃せないと先手を打った。纏わせる想念はないけれど、ただの旗竿による突きだけれど、されど渾身。


 心臓目がけて真っすぐに、聖究騎士ナヨラ・ユークリーの一撃が吸い込まれていく。


 大丈夫だ、彼女の意識は天空の大魔法陣に費やされている。回避や《信業》の発動は間に合わない。殺った───そう思ったのは、彼女が戦い慣れしていなかったから。




 ───ナヨラ・ユークリーとは、御子であった。実験体であった。


 魔術によって意図的にその精神を酩酊状態にされ、より感応しやすく設えられた観測器。彼女を造りだしたユークリー家は、『人の想念を最も敏感に感知できるのは人なり』という理念を掲げ、まだ物事の善悪も定かならざる幼い彼女をに仕立て上げた。


 そうすることで《信業遣い》として覚醒しやすくするためであり、いざ覚醒した際により強靭な《信業遣い》になるようにである。そういった処置に信庁は根拠を認めていなかったが、そんなことはユークリー家の知ったことではない。愚直に、愚劣に、彼らは自らの子に同じ処置を施しては《信業遣い》になることを祈り続けた。


 結局、彼女ナヨラが《信業遣い》として覚醒し、さらには小神にも認められる器を備えていたために聖究騎士にまで上り詰めたのは、何故なのか。


 ユークリー家からすればもちろん処置あってのことだし、信庁は「御神の思し召しである」と発表するだろう。だが、当のナヨラにはどちらでも───どうでもいいことだった。


 そう感じるような素面まともな人格を、育めるような正常性は持ち合わせていないのだから。《信業遣い》であれば魔術的酩酊状態くらいなら解除することは可能だが、それもをきちんと把握できていればこそ。物心つくより先にされて、それが当たり前のものと認識している彼女からすれば、戻るのは酩酊いまの状態となる。


 何もなければ、彼女はほろ酔いのままに神聖騎士としての務めを果たし、覚醒状態を一生知ることもないままにテキトウに果てたことだろうが。


 世情がそれを許さなかった。

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