335話 至天開睛その4

 俺はヒウィラを助けようとする。魔剣が破壊するのとほとんど同時に肉体治癒の《信業》を施せば、今からでも間に合う。


 そうしようとした。したはずなのに。


 魔剣が引き抜かれたとき、彼女の華奢な身体はべしゃりと床に血をぶち撒けた。


 胸にはぽっかりと刺創が口を開けたまま。


 《信業》に失敗したんじゃない。そもそも使えなかった。俺は駆けよって手で止血したいのに、足は根が生えたみたいに動かない。


「ふふっ」


 少女が笑っている。


 笑い声は徐々に大きくなって、やがて展望階じゅうに響き渡る哄笑となる。俺はバスティがそんな笑い声をあげるのを聞いたのは初めてで、それがどうして今飛び出すのか不思議でならない。


「あーあー、非道いことするぜ」


 男が呆れている。


 台詞の上では咎めているみたいだけれど、その顔には隠しきれない清々しさがにじみ出ている。牙を剥きだしにして笑っている。その瞳は硫黄色に燃えている。


 俺は何もできず、ただ呆然と剣を握ったまま突っ立っている。


 ───何だ、これは?


 何もかも狂っている。何が起きているのか分からないからどこでどこで狂ったのかも分からない。何も、何も分からない。分からない。


「何だよこれ」


 口だけは動かせた。それでも、混乱から叫ぼうとすると大声を張り上げられない時点で、まやかしの中途半端な自由。


 俺の一言に、ずっと笑い続けていたヒウィラが反応する。涙をぬぐいながら俺に視線を投げてきて、そこでようやく俺の存在を思い出したかのように、


「ああ、ごめん───混乱するよね。ちゃんとキミにも説明してあげるから、安心していいよ。ね、ケルヌンノス?」


「つっても俺は、ユヴォーシュがどこまで知ってるか詳しくないしな。補足に回るから、お前主体メインで話せよバスティ」


「ええー、面倒事を押し付けようとしてない?」


「面倒事ってんなら、どうして機能停止のために全部伝える必要があるようになってんだよ。議論すべきはそこからだろ」


「疑似心理と言っても心だからね、終わらせてやるにはキッチリ折らないとってことなんだろうさ」


「他人事みたいに言いやがる」


「ボクの決めたことじゃないからね」


「俺でもないぞ」


 一拍置いて、二人揃って肩をそびやかす。


 ───どうなってんだよ。


 どうしてバスティとケルヌンノスが、十年来の付き合いみたいな距離感で話してんだよ。お前ら初対面のはずだろ? 意味深にバスティの名前を出していたケルヌンノスはまだ前もって下調べしてたとしても、バスティは俺が伝えた情報だけのはずじゃんかよ。それがどうして───


 二人並び立って、仲間みたいな面をして、俺を見てんだ。


 お前の横に立ってんのは俺じゃないのかよ、バスティ───


 そう思っても、俺の足は俺の自由になりはしない。

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