272話 火焔葬送その9

「お前の炎は、誰も傷つけないんだな」


 ニーオはそっと、掌を見るかのように翳す。その掌の中に熾るのは《火起葬彼女の炎》ではなく《火焔光背ユヴォーシュの炎》だ。何気ない仕草だが、彼女はすでに《火焔光背》によって燃焼させられる行動と、そうでない行動を見分けつつある。決心がつかないからといつまでも長引かせていれば、早晩《信業》の穴をついて再び自由になってしまうだろう。


 迷っている暇はない。彼女を止めたければここが唯一の好機。


 ユヴォーシュの柄を握る手に力がこもる。浮き出た血管を横目で眺めて、ニーオは仕方ないなと苦笑する。この男はやればできないことなどないくせに、いざやるまでが長いったらない。こちとらとっくの昔に覚悟を決めているのだから、さっさとスパッとやってほしい。


 ニーオは肩をすくめると、


「それで満足してるなら別にいいけどさ。アタシは行くぜ───誰かを傷つけてでも、アタシは征く」


 踏み出そうとした足を包む火勢がいや増す。肉体の駆動だけならば突破できないが、《火焔光背》とて《信業》には違いない。同格の力たる《信業》で相殺しこじ開ければ、その隙間で一歩踏み出すことくらいは可能となる。


 一歩、また一歩。並んでいた二人の距離が離れていく。


 このまま何もしなければ彼女は《枯界》を去り、不安定《経》を用いて《人界》に帰還するだろう。傷を癒し、手駒を増やし、神殺しのために潜伏したら止めるのは極めて困難となる。


 ここしかない。


「───行かせねえよ」


 ニーオを包む火焔が燃え盛って、いよいよその姿すら覆い隠してしまう。《信業》を全力にしても動くことすら儘ならない。絶対に逃がさないという意思というより、これはからか。それともからか。どうせ───


 どこまでも甘ちゃんだ。


 ───まあ、こっちも見せたいものでもないし、いいか。そう思って浮かべた笑みも炎に巻かれて消えていく。


 ここが終わりか、と観念する。信庁ディレヒトに粉砕されるよりはいくぶんマシな結末だろう。彼の手にかかるなら、負けたにせよ悔いはない。だってどうせ、優しい彼は絶対にこのことを忘れないから。


 魂まで刻まれるなら挑んだ甲斐もあるというもの。


「じゃあな、ユヴォーシュ。お前も自由にやれよ」





◇◇◇






「───ああ」


 ディレヒトの監視下に置かれていたシナンシスが、万感の思いを乗せて呟く。


 神聖騎士と征討軍を己の手足のように縦横無尽に駆使して、ニーオを確保するために忙しなく指示出しをしているディレヒト。彼はしかし小神の動揺を目ざとく察知する。


「どうされた、シナンシス様」


 その言葉を発した時点でディレヒトも理解はしていただろう。魔術師カストラスの作り上げた義体はそれほどまでに高性能で、シナンシスの意をくみ取り表現していたから。


 それくらい、余人が見ただけで分かる想いだった。


 涙滴がこぼれないだけで、彼は今、泣いているのだと。


「───ああ。さようなら、ニーオ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る