256話 混迷臥処その3

「つッ……」


 《人柱臥処》最奥、管制室のルーウィーシャニトは思わず手を引っ込めた。その掌にうっすらと一筋の赤が滲み、やがて滴る。こうして怪我をしたのは何年振りかと感慨に浸る間もなく、は来た。


「っ、ぐ、お、おおおお……ッ!」


 《信業》を呪う魔なる黒。輝きなき刃。魔剣アルルイヤに斬られたことで、肉体的損傷以上の精神的開創が彼女を襲う。


 脈拍ごとに内蔵の配置が組み替えられているような悍ましさ。ルーウィーシャニトは管制球内で踏みしめる地面もないまま、ただただ荒い呼吸を繰り返すことでどうにかそれを耐え忍ぶ。その間の《冥窟》制御は当然できないため、《真龍》たちはここぞとばかりに自己領域を拡大し続ける。空間圧縮によって辛うじて拘束できていたニーオリジェラとヴェネロンも、これ幸いと脱出して潜行中だ。


「ぐ、く……何だッ、今の一撃は……!」


 半透明の球体たる管制球は、内部の者の操作に応じて《冥窟》各所の映像を映し出す機能もある。その内の一つ、浅層で《真龍》を相手に大立回りを繰り広げる青年の姿。


 《冥窟》を隙間なく支配するからこそ二つ名も直球で《冥窟》とつけられた彼女にしては、随分と不鮮明で遠望の映像だ。本来ならばもっと寄って撮るところを、先の一閃が恐ろしくてならないからその影響を受けないよう遠巻きに監視しているなどと他の誰にも漏らせない。そうなれば既に十分に傷ついている彼女の沽券に関わる。


 彼こそはユヴォーシュ、信庁に属さない《人界》唯一の野良《信業遣い》。容姿などの情報は神聖騎士内で共有されているが、魔剣アルルイヤについて十全に知っているのはメール=ブラウのみであり、その情報は誰にも伝えていなかった。彼女はユヴォーシュから受けた原因不明の精神攻撃を警戒しつつも、次発がないため警戒に留める。それ以上に対処すべき問題が続々と管制球にポップアップしてくるためだ。


「ええい、これほどまで忙しい日は未だかつてないであろうな。……忌々しい、ニーオリジェラめ!」


 ルーウィーシャニトは管制球を操作してニーオの進行方向にある隔壁を次々と下ろしていく。彼女の火力であれば一瞬の足止めにしかならないが、その隙に《冥窟》構造を組み替えて進行をコントロールするくらいは可能だ。


 左手では《真龍》との支配率争いを続ける。聖究騎士たるルーウィーシャニトは、《神血励起》による恩恵をそっくり《冥窟》運営に注ぎ込んでいる。常時発動しているそれによって、普段の《人柱臥処》に侵入することは自殺と同義の蛮行となる。


 並みの《冥窟》であれば、維持するためにある程度のリスクを許容する必要が出てくるものだ。エリオン真奇坑が脱出のためのオーブを設置していたように、ディゴールの《真龍》製《冥窟》が出入りに関して制限していなかったように、《冥窟》側と探窟家が完全な対等……とまではいかなくとも、であることを担保として維持に必要なエネルギーを賄うのが常識となるのだが。


 《人柱臥処》はそうではない。そのエネルギーはすべて《神血励起》から引っ張ってくるから、探窟は探窟として成立せず情け容赦のない死へと直結される。


 ニーオは侵入早々にヴェネロンと引き離されたうえで空間ごと捻り潰されそうになり、ヴェネロンもまた無限にループする回廊に放り込まれていた。ニーオが懐に潜ませていた《真龍》核の封印を解かなければ、ぺしゃんこになってゲームオーバーとなっていたことだろう。


 現状では戦況はニーオ寄りだ。ユヴォーシュの魔剣アルルイヤによる空白をついて《真龍》が跋扈しているため、ニーオたちを野放しにしてしまっている。


「そうはさせるものか。如何な手段であろうとも、貴様を最奥へ辿り着かせはせぬぞ、ニーオ……!」


 ゆえにルーウィーシャニトは反撃の一手を打つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る