223話 大罪戦争その5
例えば彼女は、信庁本殿の医務室に運び込まれていて、それを見れていなかった。
「ぎいいああああああっ、ああああっ、ああああああっ!」
絶叫しながら悶絶するナヨラ。白目を剥き、四肢を痙攣させ、涎か吐瀉物か分からないものを巻き散らし、それでも苦しみは緩和できない。
すべては天地がひっくり返ってしまったから。
彼女は《人界》に充満する意識のうねりを感じ取るのだ。
夜の到来、《人界》と《魔界》の衝突、《翼禍》の襲来、そのすべてが人々の感情に波を立てる。恐慌のうねりは怒涛となって彼女に押し寄せ、彼女の精神を揉みくちゃにする。
今回ほど酷い例は稀で、普段はここまでの惨状を晒すことはない。オースロストの祝祭に集まった人々の興奮に当てられて少し酔ったような気分にはなっていたが、その程度だ。多勢の感情を受信していつもああなっていては、神聖騎士としてあまりにも役立たずというもの。到底聖究騎士になど選出されようはずもない。
今回はあまりにも唐突かつ巨大な波が原因だ。身構える余裕もなく嵐の中に放り込まれたようなもので、一瞬で自己基盤を根こそぎに浚われてしまえばどうにもならない。
つまりこの事態を画策した何者かの計画勝ち。天晴な手際で、戦わずして聖究騎士の一画を排除してみせた元凶は、それほどまでに彼女の手の内を知り尽くしている。
「あぎぃぃぃぃっ、ご、ぼおおえええええっ」
『……つまり、内部の何者かの手引きあってこそ』
付き添いのルーウィーシャニトの幻像が呟く。彼女の生身はどことも知れぬ《冥窟》の最奥にあり、物理的干渉を及ぼすには遠すぎるからこうして共にあることしかできない。その歯がゆさを紛らわせるため、彼女も状況の分析を進める。
『ナヨラの《信業》、それを知る者……。そう多くはあるまい。聖究騎士たちは知っておろうが、神聖騎士になればその数は減る。それ以外だと───』
───そして彼女は、それに弾かれる。
「きゃっ!?」
「今のユーヴィーの《光背》だよね。え、何でキミが弾かれたの?」
「つつ……。わ、私が知るものですか。おのれユヴォーシュ、この恨みは忘れません!」
《光背》に突き飛ばされるかたちで転倒したヒウィラが気炎を上げている。それを至極どうでも良さそうに眺めたあと、バスティは彼女が転んだことの異常性に気づく。
ユヴォーシュがその気ならば《光背》は街一つを容易く覆い尽くす。現に今、彼方からヒウィラまで届いた光がそうであるように。
ならばなぜ転ばせる程度で止まる?
突き飛ばして転がしたのをそのままどこまでも吹き飛ばせるはずなのにそこで《光背》は止まってそれ以上の運動を加えない。彼がヒウィラに危害を加えることが目的ではないのはまあ分かるが、その上で突き飛ばす───突き放す必要があったということ。
「こっちに来るな、ってことじゃない?」
「とりわけ私が……ですか。まあ、どこへ行こうとも露見すれば危うい身の上ではありますが」
「なら露見するんだろうね、今行くと。《信業》をこんな大っぴらに使ってまでってことは───神聖騎士かな」
駆け付けたい。彼が戦っているなら助太刀したい。けれど彼が遠ざけている意図を無視するのも収まりが悪い。二人、逡巡する場に沈黙が訪れる。
こうしている間にも《翼禍》の軍勢が降り注いでいる。事態の進行は止められない。
迷い、震える手で自らの耳朶に触れる。そこに滑らかな硬さを感じる。
「───待て。ニーオに言われて保護しにきた。私に付いてこい」
声をかけてきた人物にヒウィラは見覚えがなかった。人間離れして整った容姿という点でバスティを連想させるので彼女に視線を送ると、どうやら彼女は知り合いらしい。
どういう感情か分からない声で、バスティが呟く。
「シナンシス……」
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