第10話

 二回目のデスライドが終わった。エダスが仰向けになって広がる草地に寝転べば、大の字のまま夕暮れの空を眺めることができる。四肢に力を入れることができないほどに体力を消耗していた。よく生きていられるななどと、他人事のような感想を胸中に抱く。ここまで化物の姿となったミレアに騎乗して、山と谷と川と砦の真上を通過してきた。三度目の騎乗はきっと振り落とされてしまう。慣れたなどという暗示をかけて呟いていたのだが、そんなことは全くなかったということを思い知る。

 うっと、胃の中のものがこみ上げそうになりだす。口元を抑えて涙目になっていると、服を着ている途中のミレアが手を休めておかしそうに目を細めていた。

「軟弱ね。騎乗しても落馬をしっぱなしなのかしら?」

「よく、いう。馬は、にが、て、じゃ、な、い」

「聞きずらいわね。しゃべるか吐くか、はっきりなさいな」

 景気づけとばかり、背中を叩いた瞬間だった。吐かせるつもりは無かったのだが、エダスの堰が決壊してしまう。陰惨な音と吐瀉物が草むらに広がる。

 強制的には楽になったが、胃が空っぽになって直ぐに空腹感が襲ってくるだろうことが予想できた。

「少し寄りたい場所があるの」

「もう日が沈みかけているぞ。いったいどこへ向かうんだ?」

「私にとって心地良く穏やかなところ。貴方にとっては、どうか知らないけれど」

 獣道を歩き続ける中で、エダスは自身が鎧を着てこなかったことに安堵していた。ここ何日もミレアに付き合っていたが、朝から夕闇の時間まで常に動きっぱなしだ。普段鍛えていても、不慣れな山道や初めての体験が多く気疲れてしまう。精も根も尽き果てるとは、まさにこのことだった。

 前を行く少女はスキップをするようにして、軽やかな足取りからは全く疲れを感じていないように見える。掻き分けるのではなく避けて通る。必要最小限に胴体を逸らしながら、無駄のない綺麗な動きをしていく。エダスが森の野生動物めと悪態を付きそうになるが、ミレアの行動から嫌ながさつさを受けることはなかった。

 そう、上品なのだ。村娘ではなく、都市に住んでいる貴族のように感じられる。ここまでを想像して、思わず自虐的に笑ってしまった。ありえない、化物であるミレアに貴族との接点がどこにあるのだと。

 だが、と考えてしまう。

 突然に視界が開けだし、思考が強制停止しだす。一面に緑を基調とした草花の絨毯が広がっていた。見晴らしの良い丘が夕日に照らされている。空に飛び込んでいく、手を上に翳せばその景色をもぎ取ってしまうことができそうな錯覚に陥ってしまう。大胆にも天国の一部を切り取って来てしまったと、目の前にある空間が余りにも幻想的だった。

 画に不釣合いな違和感があれば、伸びた岩が等間隔に並べられていた。エダスは直ぐに墓だと理解していく。

「まさかとは思うが、お前が建てたのか?」

「あれは最初に来た無作法の男達」

 ミレアが順々に指の位置をずらし、ゆっくりと過去に出会った顔を思い出しながらいう。

「右には私に向かってきた村人達が眠ってるわ」

 二つだけため息をつく。遠い目をして感慨にふけっている様子から、見た目の差異を感じてしまう。年老いて枯れ木のような女性の風貌だ。

「埋めたわよ。私だって鬼じゃない、墓くらい作ってあげるわ。まあ、纏めて一緒にはするけれど。死ねばただの屍よ。そこに、誰かの感情が残ってるわけじゃないわ。想い続けるのは、今を生きている人だけでしょう」

 全ての墓を見渡し終えると、沈む太陽に視線を止める。儚げな表情はひびの入った陶磁器のように脆そうだ。

「せめて見晴らしの眺めが良い場所くらいは、選んであげてる。私と出会ったのは運が悪かった。たった、それだけのことよ」

 諦めのような言葉が風に流されて消えていく。

「人生の心残りの一つにね、亡くなったお母様の墓を作れなかったことがあるのよ。まあ、だから傷心に浸ったのでしょうね。自身が後味を悪く感じるから、最近だけど始めたの。つまらない理由よ、半分以上が私のため」

 本心を語る少女の言葉にエダスの胸が詰まる。あれだけ暴れて人も獣も引き裂いていた像がぶれだす。ここにいるのは僕と誰なのだと。

 おかしいじゃないか、討伐対象の化物がただの内気な人間にしか見えないだなんて。頭がおかしくなったのかと、自答自問してみるが答えは出ない。

「感傷に浸りすぎたわね。お腹がすいたわ、家に戻りましょう」

 ミレアが振り返ってエダスを見る。夕日に照らされる少女、その顔をみた青年は自然に思った。綺麗な顔だと。そう、思ってしまった。


     ◇


 人の気配がない村は、幽鬼の類が出てもおかしくない程に廃村と化していた。集落内にある家屋の壁に、ものの見事な大穴が空いている。一つではなく無数に存在し、木の柱には鋭い切り傷が戦闘の爪痕つめあとを残す。村の中で大規模な戦があったことを物語る品々が、そこら中に散らばって放置されている。

 主に武装と盾、一部の鎧が破壊されて転がっていた。クローグはしゃがみこみ、剣の一つを摘んで持ち上げていく。観察してみると刃の部分がひしゃげ、くっきりと握り潰された手の跡が象られていた。成人した人間のものではなく、ひどく小さい子供の大きさしかない。記憶から思い当たる人間は一人しか出てこず、なかば呆れた声がでてしまう。

「おーおー、こりゃすげえな。あの嬢ちゃん、一体どんな怪力してんだよ?」

 夜を回った時間、月明かりと星と闇が支配する世界。男女の二人は国境の砦を通過して、廃墟と化したている村だった場所を訪れていた。ボリボリと頭を掻きながら視線を移せば、ハルバートの突き刺さっている土壁が眼に入った。フムと、一度頷いてからヒルーダへと顔を向ける。

「師匠、これは分が悪い。倒せないわけじゃないが、俺だけでるのも容易たやすくないだろうな。あくまで見立てだが、場の荒れ具合からざっと半分の力もだしてないぜ、これ」

「根拠は?」

「よくある気まぐれの勘だな。だが、解ることもある。これは殺し合いじゃない、単なる流れ作業だぜ」

 どうにも違和感の拭えない光景だった。今立っている辺りで戦いがあったのは間違いない事実だ。首を一回捻り、クローグがまぶたを大きく見開く。眼の黒い部分がぐにゅりと滑るように動き、羊のように長く伸びだす。高精度感知機のように、新たな匂いを読み取っていく。

「見えるのは負傷した野郎の血の匂いばかりで、女っ気が全くない。いやはや、乱戦だろうに無傷ってのは恐ろしいね。一体なにに憑りついたのやら、おっかねぇ牙のあとが多いこと」

 争いの光景を目に浮かべ、ミレアが体に一撃も受けていない様子を思い描く。他にも疑問点があった。死体が一体も存在しない、わずかに見つかるのは手首から先などの腐敗した一部のみ。

「人以外に成り下がったとしても、死体は不味いもんだけどな」

「貴方はしょくしたことが?」

「一度だけ……、ね。結局はただの鹿肉を炙って食った方が旨い。にしたって、放置された武器の量からみても、相手は一〇人以上はいた筈だ。食うにしても、ちょっと大食漢すぎやしねぇか」

 目的を知ろうとするが、答えが霧がかったように見えない。まあいいかと、クローグは問題点を捨て去る。本来この廃村に訪れた理由は別にあるのだから。

「で、師匠のお目当てはありそうっすか?」

「さあ、どうでしょうね。あるのであれば、相対した際にかなりの助力となるのですが」

 並々と破壊された家屋の中であって、明らかに手付かずの箇所がある。殆どなにも壊れた形跡が残っていない。一軒の家屋に近づくと裏手にある物置とされていたらしき建物の木戸をゆっくりと押し開けていく。

「どうやら当たりのようです。クローグ、私達は運がいようですよ」

 あるのは農作業や生活に必要なための道具が収容されていた。先ほど外で散らばっていたものの中に農機具が含まれている。動かしていた視線を止め、なんの変哲もない『物』を両手でもちあげる。使い込まれているが、刃の手入れがよくされていた。

「彼女の急所を見つけました」

 ヒルーダは細めていた眼をより細め、口元に微笑みを称えた。


  ◇


 深い森の中で朝の木漏れ日が眩しい。さらに明るい場所では火炎が舞っていた。立つ鳥跡を濁さずと言わんばかり、ミレアが薪でも投げ込むかのようにして家財を焼き捨てている。

 そのほとんどが木製だけに、燃料が増すほど火力もあがっていく。使い込まれたらしき調度品が灰になっていく様子を眺めていれば、過ごした長い時間も一緒に投棄しているように思えた。少なくともエダスには、相手の虚ろな表情からそれぐらいしか読み取れない。

 慎ましやかな家屋の中には、もう殆ど家具の類いが見当たらなかった。

「椅子とコップと酒樽以外、なにも残ってないが。そんなに燃やす必要があるのか?」

「私がいたという証拠を残すと、あとで碌なことがないのよ。足跡は辿られる、追いつかれるのが世の常よ」

「明日、立つのか?」

「そうね、雨が降らなければ。綺麗サッパリと消したし、行く先は風邪の吹くまま、気の向くままよ」

 思い出を薪として放り込むような作業が終わると、時間は昼を過ぎていた。火で炙っていた野兎の肉が音を立て、脂が地面に滴り落ちる。ミレアは一部を豪快に噛みちぎって口に含む。木の刺さった二つのうち、一つをエダスへと渡す。二人して雑談も続かず、互いに肉を頬張る時間が続く。

 どうすればいいのだろうか。無策に過ごせば、仲間の仇を取ることができずに敵が旅立つ。自身には力が足りない。いや、たとえかなわなかったとしても、挑むことこそが忠義の道だ。

 だが、なにが本当に正しいのか。今、自身の目の前にいる者はなにか。外見が少女のなりをした老婆だ。魔女の類いだ、倒すべき討伐対象なのだ。

 長い時間を一緒に生活し過ぎてしまった。知るべきではかった、知ってはいけない情報を得過ぎてしまっている。共に過ごした出来事が思考の渦を巻き起こす。結論づけてはいけない。素直な気持ちを受け入れてはならないのだ。

 苦しい。心が苦しい、痛い、辛い。

 エダスは暫く考えてから、手を濯いでいるミレアの方を向く。急激に眉間へと皺が寄り出す。一心に見つめながら、腰にある短剣の柄を強く握りこむ。

「夕食が二人でとる最後の晩餐となるわ。エダス、貴方は良い暇つぶしになった。喜びなさいな、私は滅多に褒美を与えることがないの。しかも、この褒美は最上級のものよ。明日の朝、貴方は自由の身よ。ねえ、聞いてるのかしら?」

 ミレアが少し強めの口調で問いかけてくる。エダスは下を向いたままで、片腕をだらりと下げていた。眉間の皺は既になく、剣を抜く気力は散霧してしまっている。

 ――切れない。

 僕はこの少女を切ることができないのだと、初めて討伐の任を諦めた。

「ああ、聞いている」

「なに、風邪でも引いたの。私と違って貴方はやわでしょうから、しょうがないでしょうけど」

「気遣いは無用だ。少し考え事をしていた」

「傑作な話なら、ぜひとも聞かせて欲しいわね」

 ミレアの笑う姿が、実の妹であるカリッサの像と重なってみえる。頭を左右に振ると、エダスは苦笑しかできない。だから答えるにも力なく手を振るぐらいしかない。

「真面目に話しても、冗談としかとらないのだろう?」

「エダスの話は全て笑えるのだもの。現実を知らない青臭さが、とてもいいわ」

「いっていろ」

 エダスは一つため息をつくと、水を飲むためにって立ち上がり、水瓶へと移動していく。家屋の中から外を眺めてみる。穏やかな森の光景は、ただただ自然体を保っていた。色の数が減るにつれ、一日も終わりに差しかかっていく。明日以降の旅支度が整う頃には、梟の泣く声が聞こえだす。

 狭い家屋の中で、ミレアがここで過ごす最後の食事を楽しそうに笑う。エダスは椅子に座り背もたれに寄りかかりながら、しかめっ面をしている。しばらく様子を眺めていたが、窘めるようにして忠告を入れていく。

「大酒飲みなのは理解しているが、いささか飲みすぎではないか」

「いいじゃない。どうせ樽の中身なんて、私以外に飲み干す人間なんていないんだから。自慢じゃないけど、まだ二日酔いなんて体験したこともない。だから明日にも支障なんてないの」

 人が気持ちよく飲んでいるのに、水を差すなんて無粋ねと、気持ちよさそうにジョッキの角度を傾けていく。忠告を一蹴され、少し不貞腐れながら反論を重ねる。

「例え良薬といえど、飲む量には限度があるだろう」

「これだから子供は嫌いなのよ。無知を逆手にして吼えるだけ、たかだか二〇にも達してない、それこそ尻が青いだけの。いーい、お酒には毒を消す力があるの。体内から摂取すれば、どんな万病の悪魔でも逃げ出すのよ」

 屁理屈のこね方に、半ばあきれるしかない。二日酔いは来ないが、普通に酔いは回るらしい。酒樽のかさがだいぶ減ったところで、ミレアが愉快にしてふらつきながら抱きついてくる。絡み酒はご免こうむりたいが、酔いどれ者は力の制御を忘れているらしい。引きはがそうとするが、細腕はエダスの全力を凌駕して万力のように強固だった。小さな口から酒臭い息を吐きかけられ、思わず唸ってしまう。

「なんで、こんなに力が強いんだ。おい、いい加減に――

「くく、あはは……、はーっあ……。私はいつでも、一人で生きてきた」

 言葉を遮られたことに文句を言い出せなかった。酷く悲しむミレアの表情に、思わず体が固まってしまう。

「ねえ、なんでかわかる?」

 わからない。答えようとしても、言葉が詰まって表に出ない。少女の独白は洪水となって押し寄せてくる。

「私は怖いのよ、どこを見渡しても嘘つきばかり、きたない人間で世の中が溢れかえってる。お母様も、六歳だった私も首を切られて殺された」

 酔いからくる言動なのかもしれない。だがそれだけではない。

 今まで我慢していた堰が決壊したからだろう。誰にも語れず、張り詰めていた何十年分もの糸がちぎれた結果だ。

「なんで……、ねぇ、なんで?」

 一呼吸の間が空いた後、本当の気持ちが漏れだしていく。ミレアがエダスの服を掴みながら、喚き散らすように騒ぎ出す。

「何もしてないのに、人を殺す前は、悪いことなんて一つも知らなかったのにっ!! なんでこんな惨めで苦しいことしか、私にはやってこないの!? 理不尽すぎるのよ、相手を呪ってくびり殺すだけの今までも、これからの孤独な人生も!!」

 狭い屋内を通り越し、外まで筒抜けになるほどの大声で叫ぶ。ぼろぼろと涙を零しながら、目を真っ赤に充血させてもおかまいなしだった。

「私は幸せに生きてる他人が憎いのっ! 嫉ましくてしょうがないのっ!!」

 金切り声で肩を上下に揺らす。やがて発作が落ち着いたかのように、吐く息が小さくなる。途切れながら聞こえてくる本心は、ミレアが一番に望むもの。

「一人は嫌、話せる相手がいないのは寂しい。本当は誰でも良い、ただ一緒にいてくれるだけで良いの。一緒に泣いて、笑って、怒って、当たり前に過ごせるだけの。ただ、それだけの贅沢な人生が欲しいのよ……」

 エダスの覚悟が決まるまで、時間は掛からなかった。一回だけ手を握りこむと、ミレアの両手に自身の手を重ねていく。胸元の掴む力を無くした細腕をそっと少女の方へと戻す。二歩だけ下がって肩膝をつくと、互いの視線が合わさった。

 一瞬だけ笑ってやると、気を引き締めて真剣な顔つきをする。

「今まで君が行ってきた罪は、やがては神が罰するだろう。神は罰するが、しかし僕はその道から逸れる」

 腰に携えていた短剣を引き抜く。すらりと伸びる鋼の先が光によって反射する。ミレアは余りの唐突な行動に、口を小さく開けるのが精一杯だった。

 なにをしたいのかわからず、表情は困惑しかみえない。エダスは構わずに、決められている動きを慣れた動作で続ける。これは儀式、騎士見習いの時が終わりを告げた証に行うもの。神と領主へ忠誠を誓い、己の持つ一生を捧げていく。

「もう、けっして人を殺めないというのであれば。ミレアが改心するのであれば、僕は神と王ではなく君のために剣を捧げなおす」

 頭を垂れ、両腕で刃を平行に持って頭上に掲げた。ミレアが生まれて初めて敬われた行動に、戸惑いの声を上げてしまう。

「え……」

「君が僕の誓いに応えるならば剣を取り、僕の肩に乗せる。あとは思うままに告げればいい」

 ミレアの手が柄へと吸い込まれるように伸びていく。だが、躊躇うようにして指を開けたまま閉じない。

「私は化物なのよ。誰もかれも殺し尽くした」

「構わない。罰するのは神であって、僕ではない」

「エダスは弱いじゃない。寿命だって私より短いのに、どうやって守るっていうの?」

「力に関しては、時間が欲しい。この剣を取ったならば、僕は未来永劫君の従者だ。この命果てても、忠義は決して破らない」

 下を向いたまま真剣な声で告げる。戸惑いの声は中々収まりをみせてはくれない。震える声は怯えに近い。

「ねえ。私は本当に、幸せになってもいいの。望む、ことが許されるの?」

「僕を従者として迎え入れることが、ミレアにとって必要なら」

「私と生きるというのは、もう決してひだまりの中で過ごせない。覚悟はあるのかしら」

「愚問だ。どのみち、任務を放棄した僕に帰る場所はない。君と別れても、この身は行き場もない。この剣を捧げなおす場所は僕が決めた。君に危険が迫れば、この身が剣となって障害の前に立つ」

「――誓うわ。私はもう、誰であっても殺さない。お願い、どちらかが滅ぶまで、ずっと一緒にいて」

 ミレアが本当に欲しかったもの。他人が持っている当たり前の幸せ。羨み、自身の縁とは一番程遠いものが目の前にある。生前に慣れ親しんでいた、無償の温もり。

 今度は迷いなく、柄を掴み込む。持ち上げて向きを真っ直ぐに降ろす。エダスの肩口に置くと、ささやかな宣誓を告げる。

「私、ミレアはエダス=ブーランジェを従者として受け入れるわ。私を守り、光の剣となって降りかかる闇夜を振り払って」

「御心のままに」

 エダスは傅く、新たな主人を守るべき対象として。ミレアは柔らかく微笑みを浮かべ、剣を横に向けてエダスへと返していく。

「期待しているわよ、騎士様」

「ああ、任せてほしい」

 エダスが笑顔で返すと、気づけば時間は夜更けとなっていた。明日は新しい旅路を歩みだすために忙しい。ミレアは酒樽の前まで行くと、木でできた一人台を軽々と持ち上げる。

 次の瞬間、ドアまで運ぶと景気づけとばかり盛大に外へと放り投げた。最後まで尾を引かずに後腐れなく、中に入っていた酒の残りが横倒しされた口から溢れ出た。エダスが呆気に取られていると、悪戯が成功したように楽しそうにしている。

「さあ、私も後戻りできない儀式が終了したわ。明日は日が昇りきる前に出立するから、早く寝てしまいましょう」

「ああ、わかった」

 就寝の準備に取り掛かっていく。弛緩した空間がなんとも気持ち良い。

 ――焼けるように、ひりつくような感覚がミレアの背中に張り付く。聴覚に集中してみれば、向かってくる耳障りな複数の足音が聞こえていた。

 回っていた酔いが一気に冷めた。ため息をつくと、異変に気づけないエダスが不審そうに聞いてくる。

「どうした?」

「来客ね。店を始めたわけでもないのに、繁盛は他へ譲るわ」


― 伍 ― [ 攻防ノ末 ]


 迎え撃つミレアはエダスと共に、家屋の外で待ち構えていた。静寂を持つ闇夜に、二つの真っ黒な人影が姿を現す。全身を覆うフードへと手をかけて被りのない素顔を晒す。

 エダスが二人の見知った顔に、思わず声を上げそうになってしまう。

 経験上、嫌な予感ほどよく当たるらしい。ミレアが心の中で余裕なく舌打ちした。対峙するように自然体のヒルードとクローグは、まるで隣人のように挨拶してくる。

「こんばんわ」

「よう、嬢ちゃんに坊ちゃん。良い夜だな」

「お二人ともこんばんわ。こんなところに用事なんて、何のもてなしもできませんが。なにか御用でしょうか?」

 ミレアは猫を被り、ほんの数ミリ分でも油断を誘う。ヒルードは布に巻かれた長柄のものを立てながら、穏やかな口調で喋る。

「突然に尋ねたこと、ミレアさんにはお分かりの内容と思います」

 討伐者。このような辺鄙な森深くに足を運んでくる理由など、一つに決まっていた。もう二度と会うことはないと、たかを括っていたのに。

 世界の狭さを思い知る。

「普段ならなら強襲をかけるのですが、一分いちぶんの交渉を持つことにしました」

「交渉?」

「ええ、そうです。エダスさんには、こちら側に戻る猶予を与えたいと思っています」

 エダスが戸惑った声をあげる。

「僕が戻るだと?」

「はい。貴方のそばにいる者は心を蝕まれ、もはや人の枠を持っていないません。彼女は罪を犯し人を殺めすぎた。罪なき人の可能性を摘むことは、許されざる大罪です。しかし、エダスさんはそうではないでしょう。今ならまだ、元の生活に戻れるはずです」

 ヒルーダの強引な線引きにミレアが眉根を寄せる。言い分が気に入らず、気づけば手に力を込めていた。エダスはミレアを隠すように、一歩前進する。

「すまない。そちらには行けない、僕はミレアに忠義を尽くす。もし父と母に会ったとしても、死んだと伝えてくれ」

「なんだよこの坊ちゃん、嬢ちゃんとくっ付いちまってるじゃねぇか。師匠、俺らの出る幕って全くなくね? さっさとおっぱじめようや」

 横で話を聞いていたクローグが軽薄に笑う。口角は上がっていたが、目尻は冷静そのものだ。ミレアが品定めをしていく。一組の中で強者はどちらなのか、エダスに負担のかからない相手は誰かを。

 判定、強烈な異彩を隠すヒルーダに焦点を絞り込む。

「お兄さん、私はお姉さまのお相手をするわ」

「いや、僕は盾になると決めたんだ」

 エダスはゆっくりと鞘から剣を抜く。ヒルードは淡く反射する刃をみて、肩をわずかに落とした。覚悟が決まっている相手を説得するのは難しい。

「わかりましたエダスさん、本意ではありませんが。元騎士として忠義というものは心得ているつもりです。貴方の考えを尊重致します」

 ヒルーダが手を後ろに回し、挿していた簪を引き抜く。束ねられていた金髪が、風に靡いて散らばっていく。

「クローグ、私はサカを。貴方は青年の相手をお願いします」

「あいよ」

 クローグが準備運動とばかり、指と首を軽く鳴らす。荒事が日常茶飯事だとでも言いたげな顔は、獰猛に口を開いて犬歯をむき出しにする。

 ミレアがエダスに呼びかけた。

「兄さん、二手に別れて逃げるわ。兄さんが右、私は左よ」

「なぜだ、ミレアは僕が守ると決めたはずだ」

「お兄さんは、お兄さんのことだけ考えて。私は大丈夫だから」

 はにかむように笑って見せると、ミレアが一目散に走りだした。エダスが止める間もなく、真っ暗闇へと姿を消す。同じようにして、ヒルーダが一足遅れで走り出す。

「おっと、坊ちゃんの相手はこっちだぜ?」

「どけ!」

 慌てて追いかけようとするが、太い幹のような腕に視界ごと阻まれてしまう。クローグが荷物を投げ捨てながら、余裕の笑みを称えていた。

「世の中の通りってやつを教えてやるよ。ここじゃ坊ちゃんは二番で俺が一番、お情けだ半殺しで勘弁してやる」

「ふざけるな!!」

 丸腰の相手だろうが、今は張り倒してでもミレアを追うのが先決だ。膝のあたりを目がけて剣を水平に振り抜く。

「ああ、そうそう。一つだ、良いことを教えておいてやるよ」

 放った刃が二本指に挟まれて抑えつけられ、微動だにしない。どんな鍛え方をしていても、易々と両腕の力を指の数本で抑え込むことなど不可能だ。敵は常人の腕力ではない。

 クローグは顎をさすりながら快活に語る。

「うちの師匠だがな、尼さんもどきになる前は一国の千人将だったそうだ。それもただの千人将じゃない、戦で一度も負けたことがないらしい。俺みたいな怪物サカを相手にも平気で勝っちまう。ようわな、負けなしのモノホン怪物不敗ヤロウってことだ」



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