第8話

「……ぐあっ!」

 朝早く、エダスの起床はミレアの綺麗にはまった肩の殴打で始まった。夢も眠気眼も全て吹き飛ばし、強引な寝覚めは暴君の一撃で幕をあけだす。

「いつまで寝ているの、さっさと起きなさい」

「おい! なんという起こし方をするん……だ?」

 続いていた怒声が途切れる。少女は一世代前ではあるが、どこの人前に出てもおかしくはない余所行きの格好をしていた。埃と泥の付着した村娘のような格好ではなく、髪まで身なりの整ったもの。まるで都会育ちの娘のようだった。

 深い緑のボディスに青のスカート、上にはワインレッドのコートを着込んでブーツを履いている。昨日までとは違う、垢抜けた姿に言葉を失ってしまう。惚けてみていると、ミレアから冷ややかな視線が飛んできだす。

「馬子にも衣装だなんていってみなさい。今後において一生涯、自由に歩けない体にしてあげるわ」

「口には出さない」

「白状している時点で一緒でしょうが……。私は支度が終わっているの、エダスもさっさと水浴びくらいしてきなさい。このまま町に出たら、異臭の浮浪者で憲兵に連行されるわよ」

 町に出るなど、エダスはなにも聴いていない。寝耳に水な状態だったために、思い切り慌てだす。

「昨日の会話で、今日から旅支度に出るなど言われていないぞ!?」

「陽が真上に登りきるまでには、町に辿り着いていたいの。さっさと文句を言わず、準備を始めることね。ちなみに、私と貴方の身なりだけを比べると、貧富の差が逆転してるわよ?」

 ミレアの含み笑いで気づき、顔を下に向けて確認していく。何日も着る物が変わらず、衣類も含めて全身が埃塗れになっていた。小馬鹿にされているが、怒る気力が残っていない。気力を振り絞る場面は、皆の仇を討つときだけ。正々堂々と一騎討ちを申し込んだ時のみと決めていた。

 私闘となる決闘ではない。エダスの心中は、未だに戦場の真っ只中を駆け巡っていた。武勇も栄誉も名誉も、新たな地位も望まない。欲しているのは騎士道としての正しいあり方のみだ。

 ここまでを思考し、いったん中断する。くしゃくしゃに頭を掻くと、釜戸の前で屈み込む。ミレアに背を向けながら、火打石を探していく。

「服を洗ってきて乾かしたい。火をつける石はどこにある?」

「とっくの昔に切らしてるわね。残ってないわよ、そんなもの」

「なに……?」

「壁に立てかけてある器具を使うの。貸してあげるから、やってみなさい」

 この時代、どこの家庭にでもある当たり前のものがない。ミレアが指を差した方向には、摩擦式の発火器具が置かれていた。日本で言えば、縄文・弥生時代の人々が使用していた古来からの原始発火装置だ。

 やっとここにきて初めて出来るであろう事柄が、また一つ消滅した。暫く装置と睨めっこをしていたが、溜息をついて肩を落とす。

「あれの使い方がわからない。すまないが教えてくれ」

「だと思ったわ。お手本をするから、よく見ていなさい」

 この後、エダスの支度が整うまでに、陽が天高く上りきってしまった。

 昼間の森を散策するような足取りで歩く。暗闇の中で先に進むのとは段違いに動きやすい。陽の光が天の恵みだと説かれててもおかしくはない。それほどにありがたいものだった。これで野生の動物が出ようとも、やりようがいくつか増える。

 前を歩いていたミレアが、不思議そうにしてエダスに言葉を投げかけていく。 

「しかし、よく私の買い物に付き合う気になったわね。駄々を捏ねて、お留守番だと思っていたのだけれど」

「逃げられては堪らないからな。ミレアが旅へと出発するまでに、騎士の誇りを賭して再戦を申し込む」

「無謀なことを言うものじゃないわよ。忠告しておくわ、誇りと命を秤にかけるのは辞めておきなさい。はっきり言って、割に合わないわ」

「剣に一生の誓いを立てたのだ。それを僅か数ヶ月で折ってたまるものか」

 価値観の違いだった。正騎士の全てがここまで頑なではないだろう。「ついていけない感覚ね」とミレアが言って、エダスが不遜にした。今現在、彼は行き先を知らされていない。付いて来なさいと促され、全く得体の知れない獣道を歩かされている。一時間ほど歩き通し、秋口の寒さでもじんわりと汗が滲む。発汗した額を拭い、やっとの思いで辿りついたのは絶壁の崖だった。反対側の崖まで一〇メートル以上はあるだろうか、周りを見渡すが橋らしきものがない。

 崖の下は川が通っている。落ちれば命の助かる保障がない深さ、今度は段々と冷や汗が出だす。

「跳んで渡るわよ」

「やはりか……」

 ミレアが振り返り真顔で告げてくる。エダスは嫌な予感が当たったことに落胆した。

「周辺の町では足がつくかもしれないし、エダスの顔も割れている。国境を越えるわ」

「ここから何里も行った谷の中で、一番近い国境には戦砦がある。関所としても機能している場だ。許可証がなければ、通ることもままならないぞ」

「人が谷に作った道を越えていく道理がどこにあるの。他の方法で越えるのよ」

「どうやって?」

 ミレアはその場でしゃがみこむと、小脇にして抱えていた布を広げだす。最後に真ん中へ銀貨の入っている袋を置く。二つの動作を済ませると、エダスに笑いかけた。

「こうやってよ。持ってなさい、服が破けては堪らないわ」

「なっ!?」

 当たり前のように上下の服を脱ぎだすと、その場で全裸になる。羞恥心のない大胆な行動に、エダスが怒鳴った。

「いきなり脱ぎだすんじゃない!」

「子供の体に欲情するの。まあ怖いわね、もしかしてペド?」

「なんでそうなる!」

「あはは、本当にからかい易いわね」

 ミレアの体が膨らんでいく。全身に淡い緑の毛を伸ばしながら、犬の怪物へと変化する。今度こそ、本当の意味で驚いてしまう。腰を抜かすといっても良かった。エダスは少女が獣の姿へ変貌するのを初めて見た。前に戦ったときは、少女のままの状態で気絶させられていたのだ。だから、ここまできて気づいたことがあった。

 自身がどれだけ鍛えようが、どれほどの強さを身につけようが決して勝てないと。

「私の服を丸めて包んで頂戴な』

 声質が変化し、少女の声と獣の声が混じりだす。ミレアが前に一〇〇人の兵を見て逃げ出すといっていた。青年には、言っていたことが正直に嘘だと思えてしまった。人は人に勝つことが出来るかもしれない。だが、人以上には勝てないのだと。今後の道筋が、一気に白紙化してしまう。

 ぼーっとしていると、大きな犬の顔が近づいてくる。目がないはずの犬がきっちりとこちらを見据え、巨大な口を開けて喋りだす。

『それじゃあ、私の背中に乗りなさい』

「え、僕がしがみつくのか?」

『口に咥えられる方がお好みかしら。移動中にある衝撃で、勢い余って噛み砕くかもしれないわよ?』

「背中でいい……」

『そうなさい』

 付いていくべきではなかった。エダスはこの時、素直に従ったことを死ぬほど後悔することになる。巨大な獣が伏せても、余りの大きさによじ登る必要があった。上がる場所など決まってはいない、どこから手を掛けるべきかと考えてしまう。

『早くして頂戴な』

 少し苛立った声が聞こえ、促されるままに脇腹から乗ろうとする。足の先を引っ掛けると、踏ん張ってなんとか背中に騎乗していく。

 というよりは、しがみ付くか張り付くが正しい状態といえた。ミレアが立ち上がった瞬間、一気に視界が上がりだす。普段の数倍ほど高い場所から見下ろす景色に、まるで世界が違っているような錯覚を抱いてしまう。ミレアが地面にある包みを咥えると、前足の爪を地面に立てる。ガリガリと跡を残して、跳ぶタイミングを調整していく。

『いくわよ?』

 この一言と共に、エダスにとって悪夢のような時間が始まった。例えればジェットコースターを乗り続けるようなものだ。常時数分程度でスタートからゴールへ到着する。これがどうだろう、一時間を経過してもエンドレスで続くとしたら。縦横からくる重力の圧に、数時間も耐えれるものはそういない。内臓がかき回されれば、吐き気が連続で襲ってくることになるのだ。

 悲鳴、嗚咽、眩暈、通常では味わえない恐怖の連続体験を幾つもする。嫌になるほどする。途中下車は存在しない。振り落とされれば、待っているのは地面に激突してできる複雑骨折の山だった。

 途中、喉の嗄れきった青年は死人のように蒼褪めていき、全身運動を堪能した少女は心底楽しそうに山中を駆け巡った。


     ◇


 ミレアが上の服を着込んでいく。着替え終わると両腕をあげて背伸びをし、とても溌剌はつらつとした満面の笑みをしていた。山野から滝のある崖を降りきると、また標高のある山の峰を駆け抜けていく。途中にある谷の真下、強固な戦砦を悠々と見下ろして隣国へと入ったのだった。

 気温差と高度の急激な変化にエダスの体は疲労困憊と化していた。陽はまだまだ下がっていないが、木陰で小休止をとらなければならない状態となっている。

 何度となく気絶しそうになって、よく振り落とされなかった。エダスは今も息をして無事だという事実に、自身を褒めたくてしょうがない。最早、握力は完全に失われていた。

 頬の辺りには、うっすらと泣いた跡が見え隠れしている。脱力した状態で、遠い目をしながら呟く。

「もう十分だ。僕は、一生分を乗り尽くした……」

「なにいっているの。帰りも同じようにしてもらうわよ?」

 ミレアが含み笑いをすると、エダスの魂が口から抜け出ていきそうになる。行きは良くない、帰りも良くない。史上最悪の乗り物に嫌気しか差さなかった。普段馬に装着されている鞍のありがたさをしみじみと感じてしまう。

 帰りは楽がしたいと提案を持ちかけてみる。

「通行許可証を買えるだけの持ち合わせはないのか?」

「お金がもったいないわ、素通りが一番よ」

「命の方が大事だ」

「決闘だの一騎討ちだの、軽々しく差し出してる人間がよく言うわ」

「騎士道と死の騎乗デスライドは全く違う。我ら騎士にとって、誇りと命は同義だ」

 一体全体なにが違うというのか。ミレアは理解不能な言い分に肩を竦めるだけだった。エダスが手を水平にして視界に入る陽射しを遮れば、うっすらと町が見える。ここから歩いても、一キロを切っている距離だ。

 ミレアは首を鳴らしながら、嬉しそうに告げる。

「宿を取って、そのまま酒場へ直行するわ。そうねぇ、エダスの役割は義兄ということにしておきましょう。私だけでこの身なりだと、さっさと追い出されてしまうから。今日は羽を伸ばして過ごせそうだわ」

「ここへは旅支度の用意に来たのではないのか?」

「支度は大切、酒場はオアシスいよ。私の心を潤すためには、お酒が必要なのっ♪」

 飲んだくれの子供が上機嫌に弁を説くと、今度はエダスが理解できないと首を捻って呆れてしまう。小休止をとり終えて、ゆっくりと町の石畳に足を踏み入れる。場所は大きな湖を水源とした、とても落ち着いた漁師町のようだった。地形を森とのあいだに挟まれて、紅葉の鮮やかな色彩に包まれている。接岸された多くの船が帆を張った状態で水面に浮いて停泊していた。

 二人は物珍しそうに観光気分で左右を見渡していく。エダスの住んでいる地域は、内陸の平野にある城塞都市の中だった。港町のような光景を眺めるのは生まれて初めてだ。

 ミレアは久しぶりに人の多い土地に触れたことになる。売られているもの、行き交う人々、堀が埋められて花壇になっている家々を見ると、戦火には遭いにくいらしい。

 両替商で硬貨の換金を済ますと、宿屋を探して彷徨い歩く。途中、エダスが見つけた宿屋へ足を踏み入れようとして、苛立ったミレアに止められた。

「なぜ服を引っ張る?」

「外観も中も立派すぎる。値段が高そうだから、他を探すわよ」

「ここで充分ではないのか?」

「贅沢貴族が、これだから。エダスは文無し、私の懐では高級嗜好を賄えるだけの余裕がないの。おわかりかしら、この世間知らず」

 確かに今は持ち合わせがない。普段とる調子で振舞ってしまったことに、バツの悪そうな顔しかできなかった。

 次いでわく疑問、目の前にいる少女は多量の金を持っているはずだと気づく。討伐の軍資金は充分に馬車へと積まれてあった。討伐隊の死体からも剥ぎ取れば、幾分かにはなった筈だと。

「僕らを襲ったときに金を得たはずだ。銃は取ってきたのに、硬貨は盗らなかったのか?」

「今の生活に飢えてはいない、私は基本的に小欲知足なの。銃は最低限の知識を補填するために必要だった。それに元からして盗賊じゃないわ、自身の領域を守るため狩ったに過ぎないのよ」

 二人で歩きながら話していれば、食事を取れそうな酒場から湯気が立ち込めてくる。香辛料の匂いから文明社会を嗅ぎ取った。エダスがここ数日の奇怪な生活を思い返して嘆きそうになる。ミレアは相方を放ったらかしにして、酒場へと突入していく。

 既に少女の目は食欲とアルコールにやられていた。慌てて肩を掴もうとするが、指一本分だけ及ばずで透かしてしまう。

「おい、待て! 宿の確保が最優先ではないのかっ!?」

 できれば今すぐにでも、休めるベッドの上に突っ伏したい。数時間で良い、熟睡させて欲しいのが本音だ。だが、少女は大声を無視して嬉しそうに入店していった。

 昼間から堂々と酒を飲み干すつもりらしい。外に取り残されたエダスが溜息をつき、出入り口の近くに腰掛ける。神に忠誠を誓った騎士が、勤労すべき時間に酒場へ入るなど言語道断だった。

 本人が満足するまで待つかどうかを考えあぐねていると、戻ってきたミレアに無理やり首の後ろを掴まれる。前が締まり、喉仏が衝撃を受けて咳き込む。

「なにをしているの、さっさと入るわよ」

 放せと叫ぶ暇もなく、問答無用の怪力によって店内へと引きずられていく。

 昼時ともあり、食事を取っている幾人かだけが見受けられた。木でできている簡素なテーブル席に着くと、エダスは未だに咳き込んで苦しんでいる。力を入れ過ぎてしまったかと、ミレアが一人納得して自己完結していく。給仕の女性がやってくると、彼女は少し眉根を寄せて見てきた。ミレアがにこりと笑い、歳相応の少女らしくに振舞う。

「こんにちは」

「あら、珍しいお客さんね。どこから来たの?」

「国境付近の村です。都に向かう途中で、この町に立ち寄らせて頂きました。私、村以外知らなくて、見れるもの触れるもの全部が初めてなんです」

「あんまり似てないけど、もう一人は貴方のお兄さんかしら。都にはお使いかなにか?」

 女性は水の入った木製のコップを置きながら訪ねてくる。エダスがミレアの場慣れしている対応に驚く。人の言葉も忘れてしまいそうなほどの歳月を重ねているのに、どうしてこうまで達者に話すことができるのかと。ここは黙していた方が良いだろうと算段し、無言で水を口に含む。少女が小さな舌をちろりと出し、いかにも楽しそうな顔をしだす。

「いいえ、身売りです」

 エダスが口に含んでいた水を噴き出した。鼻に痛みが走り、思い切り咳き込む。そんな馬鹿なといった表情で、服の袖を使い口の周りを拭う。

 誤解した女性が両手を腰の脇に当て、思い切り睨んできだす。ミレアが顔を左右に振り、諦めたような口調で話した。

「兄さんは長男、私は長女です。家は貧しく兄弟は多くて、今を養うのがやっとの生活ですから。着ている綺麗な服も、高い値で買ってもらえるようにって。でも、私はそれでもいいんです。家族が幸せならそれで、それだけで幸せですから」

 最後は一筋の希望を語って薄幸はっこうの面影をみせる。

 なんという嘘八百を並べ立てるのだ。横で座って見ていたエダスが、引きつった表情で固まってしまう。気づいたミレアに足を踏みつけられ、激痛で叫びそうになる。女性は篭絡されたかのように同情し、とても悲しそうな顔をしていた。

 健気な少女にどう話していいものか。エダスの顔を再び睨みつけてから、ミレアの手をとって優しく話しかけていく。とんだとばっちりだとばかり、青年は恨み節をグッとこらえて忍辱にんにくの鎧を着込む。

「そっちの甲斐性無しからは巻き上げるけど、あなたのお代はなくていいわ。うちの店の料理であれば、今日は好きなだけ食べてね」

「まあお姉さま、ありがとうございます!」

 飛び跳ねるような動きで体全体を使い、とても嬉しそうにはにかむ表情を見せる。給仕の女性もまあ可愛いといって、手放しで愛想を返す。エダスはやり取りを見てて疲れ果てた。ミレアは一頻り今の状況に満足したのか、猫がねだるようにして注文していく。

「お兄さんは死ぬほどお酒が好きなのよね。お姉さま、お一つお願いできますか?」

「 っ!? 」

 そんなわけがないと言う前に、エダスがもう一度だけ足を踏み潰される。余りの理不尽さに、最早ぐうの音も出なくなってしまう。暴君のような存在が、純粋さ満面の笑顔で眼差しを向ける。本音の語る顔は『私にお酒を寄越しなさい。さもなくば暴れるわよ』というものだ。

 もうどうにでもなれと、設定上で兄にされたことを呻く。

「酒をくれ……」

「ハン、こんな真昼間からかい? 全くいい御身分だね」

 鼻を鳴らされ、蔑んだ口調で罵しられてしまう。なんで僕がと、損な役回りばかりに嘆くしかない。心なしか腹部もキリキリと痛み出している気がした。女性は注文を受け取ると、背を調理場へと向けて戻っていく。エダスが盛大に溜息を吐き、ミレアがなんとも嬉しそうに背伸びをした。

 久しぶりに人里へくだってきたからか、余りの上機嫌に民謡まで歌いだしそうだ。女々しいが、嫌味の一つでも言わなければ気分は最悪だった。

「随分と手慣れているな。空気を吸うように嘘をはくとは、知らなかったぞ」

「残念ながら貴族だけの特権ではないの。まあ、エダスにはその知恵でさえ足りないようだけど。そうそう、人の品性は顔と育ちに出るそうよ。田舎者だけれど、ここが田舎でよかったわね?」

 にっこりと笑って、毒舌の応酬をくらう。精神力を根こそぎ持っていかれた。少し待っていると料理と酒が運ばれてくる。ミレアは木のコップに入っていた水を一気に飲み干した。

 次いで、エダスの前に置かれていた酒を並々と移し変えだす。

「う~ん、良い匂い。思ったより割と品がよさそうね、気に入ったわっ♪」

「おい」

 ぶどう酒の匂いを鼻で嗅いでいたかと思うと、今度は豪快に飲み干していく。周りの目など気にせずに、自身でもう一杯と注ぎ足しだす。エダスがどうしたものかと慌ててしまい、両腕を振り上げた。ミレアは知ったことかと相変わらずの表情だ。

「疑いのかかりやすい身だ。騒ぎを起こしてしまったら、不味いのではないのか?」

「安心なさい。貴方が最後の晩餐だといって、飲ませてきたと答えるだけよ」

 なにも安心できない回答を貰い、その場で地団太を踏みそうになってしまう。こっちが自棄酒やけざけに浸りたいと感情が右往左往し続ける。やけだとばかり、焼かれた肉を思い切り噛み千切った。炒めて香辛料を振っただけの豆を頬張り、顔を上にあげてコップの中身を飲み干していく。今の食事に貴族の作法はなく、上流階級の欠片もない。横で流し目にして見ていたミレアが楽しそうに笑う。

「あらあ、粗野が板についてきたじゃない。野良生活までもう一歩かしら?」

「なん、とで、も、いえ! ぼく、だ、がはいさ。だかっらぎあふぃあ」

「食べきってから言いなさい……、先祖返りまでしろとは言ってないわよ」

 どこの山猿だと呆れ、頬杖をつきながら投げやりに答える。エダスが口をもごもごと動かして中のものを胃に押し込む。

「食べれるときに食べる。いつまともな食事をとれるか解らないのだから、なおさらだ」

「へーえ。それは私よりも随分とまともな料理を作れる、人間の言い分だと思うのだけれど。貴方、いつからそんな大層なご身分になったのかしら?」

「ぐ……」

「口で勝てないなら、せめて他くらいはまともにしてみせなさい」

 完全に言い負かされたエダスが、打ちひしがれたようにして顔を上に向けた。机を一回叩くと、とても悔しそうにする。

「く、武でも知でも家事でも勝てず、年齢さえ突き放されている。僕に勝機を見出せる部分は、いったいどこにあるんだっ!?」

「一言多いのはどの口かしら?」

 ミレアが年齢の部分に引っ掛かりを覚えて苛立ちを顕にした。痴話喧嘩か兄妹喧嘩ともつかない会話が続いている中で、数分と経たずに酒の入ったジョッキが空になってしまう。量が足りないと不満を漏らし、少女が青年へと上目遣いして追加注文をねだりだす。

「聞け、僕は大酒呑みでも中毒者でもない。周りに誤解されるのも心外でしかない。望みを叶えたければ、自力でなんとかするのだな」

 フンッと鼻を鳴らし、エダスが不貞腐れながら他へと視線を外す。もう一人はやり取りを楽しむように、両手でエダスの肩へと枝垂れかかる。

「エダスが頼まなければ怪しまれるじゃない。年長者は、年下の我侭を受け入れるものよ?」

「先ほどから素の装いを包み隠さず、当たり前のようにして身を拡げているではないか。だいたい、僕はまだ一滴も飲んでいないんだ。口元を嗅がれただけで、どちらが要求しているかは一目瞭然だな」

「あらそう、ならば良い方法があるわ」

 ミレアがほんの少しだけコップに残っていた酒を口へと含む。

「むぐ!?」

 エダスの顔を両手でがっちりと挟みこみ、そのまま口移しで流し込もうとする。求愛しあうような深い口付けにもがき、片方が暴れだす。紫色の液体が喉を通過することはなく、口の周りと服に付着していく。余りの強引さに耐え切れず、エダスが怒鳴り声を上げる。

「なにをするっ!?」

「あはは、香水みたいに良い匂い! これで飲んだくれの完成よ。さあさ喉が渇いたわ、早くおかわりが欲しいわね」

「頼ませるにしても、もう少しくらいまともなやり方があるだろう!」

「いいじゃない、結果が同じであれば問題ないわよ」

 呆れてものも言えないままに、エダスは服の胸元を確認していく。べっとりと紫色の液体が付着していた。上げた顔を手で覆うと、数秒のあいだ現実逃避してしまう。それでなくとも口付けというやり取りに呻くしかない。身形みなりは少女でも中身は七〇ほどの老婆だ、いろいろな意味で倫理的に問題がありすぎた。

 要求に従わなければ、今度はなにをしでかすか予想がつかない。渋々と給仕の女性を呼んでみるが、やはり辛辣な言葉が返ってきた。

「どれだけ飲む気だい、このアル中が」

 全ての根気を削ぎ落とす大鉈振りのような一言に、新たな胃の軋みを感じた。このあと数時間のあいだ、ミレアが追加注文を口にし続ける。気分よくほろ酔いするまでに、九杯のジョッキを空にした。

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