第3話

 一匹の動物が地平線を駆ける。遠巻きに走るそれは普通に見えた。

 だが、近くで見れば象を超える体躯に、鋭利な歯がある部位からはハタハタと布きれのようなものが風を切り続けている。どれだけの間を駆けたかわからないくらいのところで、思い切り後ろ足を踏み込む。踏ん張った分だけ、地面にめり込み土が抉れていく。

 ダンッと、犬の化物が大きく跳躍する。飛び降りた先にある森へ一直線に落下したが、着地音は全くしない。姿を人に変えたミレアが、ドレスを引きずりながら目的の場所まで歩いて行く。

 湖のほとりまで来ると、全裸のまま水中に浸かり体を洗いだす。一頻り鮮血をこすり落とし終わると、湖から出て木の脇に隠してあった簡素な作りの服を着た。

 伯爵を殺した際に着ていた真っ赤なドレスは片方の肩袖から先が無く、引き千切れて鮮血によって、更に真紅へと染まりあがっている。

 ミレアは、それを興味なく湖の中へ投げ入れた。犯人追うための唯一の証拠は、景色の彼方へと揺れながら流されていく。

 深い森を歩いて抜けていくと、ある村まで辿りつき声をかけられる。

「あら、エーヴったらまた夜のお散歩?」

 エーヴという、ミレアの偽名が呼ばれる。声を掛けて来たのは細身の女性だった。おしとやかさより荒さを感じさせるが、どこか芯を持っていそうなタイプの人間に見える。

「はい、今夜は良い月だったものですから。団員の皆さんはご就寝なのに、リディさんは、まだ寝られないのですか?」

 木箱の上で座っているリディに、ニコリと笑いかけた。

「エーヴと同じで、私はもう少し夜風にあたらせてもらうよ。それにしても、エーヴがうちのサーカスに入って、もう三年になるんだっけ?」

「ええ、あの時身寄りの無い私を拾ってくれたことには、今でも感謝しています」

 ミレアが一礼して、リディが手をひらひらとさせながら苦笑してしまう。

「よしなよ。元は皆ばらばらの人間が集まって出来たのが、うちのサーカスなんだから。それに、さ」

 風切り音と共に、投げナイフがミレアに向かって飛ぶ。ミレアはそれを難なく受け止めて、リディが嬉しそうに笑った。

「エーヴが自分で勝ち取った今の居場所だろう。だったら、気を使う必要なんで無いでしょ?」

「ありがとう御座います。リディさん、私はもう寝ますね。お休みなさい」

「ああ、お休みエーヴ」

 ミレアはリディに軽く会釈をして、設置されていた天幕の中へ入っていく。そこには幾つかの檻があり、気配に気づいた見世物の虎が顔を上げて侵入者を確認した。

 ミレアは構わず檻の方へ近付いていき、虎は嬉しそうに低い声を上げて喉を鳴らす。

「アルマン、ただいま。今日は、また一つ支柱を砕いてきたの。後いくつ砕けば、土台がぐらついて全部壊れるかしらね?」

 アルマンと呼んだ虎の下顎を手で擦る。体躯のある動物は気持ち良さそうに目を細めていく。

 ミレアは檻にもたれながら腰を落としてその場に座り込む。とあるサーカスの一座が今の居場所であり、以後心地の良いねぐらとなっていた。意識が戻って村を滅ぼしてから、ミレアにとって先ず一番に確保しなければならないものがあった。それは当分の衣食住が確保できる場所だ。

 そうなると、どこかの町に住めば良いのかもしれない。しかし目的のために移動範囲が制限される可能性があり、また万が一に正体が割られた場合には自分の身が危うくなる。思いつく限りの予想からミレアが消去法で目をつけたのは、サーカスや行商を生業としている者たちの中に混じること。

 この手の人々たちは集団で物事を行い、村々から町々へと止まることなく移動しつづける。そして幸か不幸なのか、体の自由が効かない間にサーカス団の様子だけは逐一観察できる環境が整っていた。

 経験を活かすことに決めれば、後は適当に見繕えそうな場所へ潜り込むだけ。結果は上々、行き倒れを装って今のサーカスに拾われた。仕事で信用を勝ち取ることも、持ち前の化物である身体能力を活かせば難なくクリアだ。

 今現在の狙う獲物は国の支柱となっている人物、特に民衆を第一に考えて行動している人物に的を絞っている。移動して戻る範囲も一座の人間たちに怪しまれない二時間程度に限っていた。

 たったそれだけしか制限が無い方が、圧倒的にメリットとして機能している。常の移動は足跡が残りにくく、捕まえたい側は未だ誰一人として姿を見れてすらいない。

 一度、一座が興行した町で貴族殺しの犯人像が描かれた似顔絵を目撃したことがある。体中に傷を負った屈強な男が描かれていたため、てんで的外れな答えに腹が捩れて軽く涙が出るほど笑った。

「今日でちょうど三〇人目ね。良心の塊は、あと何人がこの国に居るかしら?」

 壊すのは楽しい、もがく様を思い描くのは楽しい。復讐の刃は王の喉下へ確実に近付き始めている。国が荒廃し腐り始めれば、それは嫌でも他国の耳に入るだろうことが予想できた。

 あとは、どこかの国が攻め入ってくれさえすればチェックメイトが完了する。最後は城攻めのどさくさに紛れて城内へ侵入すれば、手薄な王の前に行くことも簡単にできる。

 今はまだ土台を揺らすだけだが、いつかは辿り付く。ミレアは心の中で母の仇のためと燃え滾る炎に、今までの結果から得れた実感という名の薪を汲み続けていた。


     ◇


 ミレアが復讐に心を焦がしている数百年以上前から、国同士の争いは絶えず行われていた。戦の後には勝利した者たちが、勝鬨の雄叫びを上げる。勝者が戦場の全てを蹂躙した証拠であった。

 逆に敗者は屍の山を積み続けている。果てしなく続いた後の敗戦は、敗者に絶望を与え希望という名の扉を閉ざす。血に染め上げられた戦場のどこかで馬のいななきが聞こえた。

 馬の主は脇腹を突かれて長く持たない。馬はそれでも己が主を起こそうと声をかけ続けている。主は手を伸ばして馬の顔を摩る。

「どうした、はぁ、お前も、ぼろぼろじゃない、かぁ、カハッ」

 主は口から吐血しだす。馬は数本の槍が体に突き刺さろうとも、自身より主の方を心配した。

「寒いな……。もう一度だけで、良い。妻の顔を、見た、かっ―――

 戦場を駆け抜け続けた歴戦の猛者だった貴族がその場で絶命した。馬は傅く様に主に寄り添い続ける。やがて馬も力尽きるように膝を曲げた。

 馬の心臓が力を無くし鼓動を緩めていく。どれだけ経ったのか時間の流れが緩やかに過ぎ去る中で、突然に主の死体から黒紫の煙が宙を舞う。赤い線が捕食のための囲いを描く。最後の戦場を共に駆け抜けた馬を飲み込んだ。


     ◇


 国がいつも穏やかであること、それこそが民衆にとっての幸福である。そしてそれは貴族や王族も同じことだった。しかし、城内では今まさに蜂の巣を突いた騒ぎが起き始めている。最近貴族が殺され続け、ついに位の高い者にまで貴族殺しの魔の手が伸び始めていた。未だ貴族殺しの顔が見えず、足取りも掴めずにいることは周りの人間を不安にさせる要因となっている。

「一体どこぞの馬の骨が、このような奇行を行っているのでしょうな。つい昨日は、辺境伯が殺害されたとの一報も届いていますぞ」

「しかし、その付近に滞在していた伯爵は、まったく何も起らなかったと聞いております。いまいち犯人の意図が見えませぬところが、何ともまた不気味ではありますな」

「ですが、辺境伯が亡くなられたことは、寧ろ我等にとっては好都合ではありませぬか? あれは税を減らせなどと、他領地にまで難癖をつけていましたからな」

 城の一角で貴族同士が話し合い死者を悼む会話をしている。だが、実際は腹の底で邪魔者が消えたことに喜んでいた。国で殺されているのは欲の皮が突っ張った貴族にとって、まさに好都合となる人物ばかりだ。課税や戦争に対して慎重な穏健派の人間が多い。多いというよりも、そういった人物だけが殺され続けていた。

「私のところに現れないのであれば、この貴族殺しは我々にとって英雄のようなものですな。いやはや、なんともこれは子気味のいい話です」

「まったく、私達のやり方に口を出す連中がどんどんと減っていくのですからな。これはまったくもって、ありがたいことこの上ない話ですよ」

「税が足りぬなら、他国へ攻め入って奪えばいいのです。領地を広げれば、我が王も大層お喜びになられるに違いない」

 会話をしていた三人が笑う。税を納めるのも民衆であれば、兵に借り出されるのもまた民衆だった。この会話を聞けば、きっと世間からは猛烈な抗議の反発をされる。だが本音と建前を使い分ける貴族は大義名分という難癖をつけて、世間を黙らせるのだ。

 三人が話している中、廊下の端から一人の髭を生やした中年の男が歩いてくる。筋骨隆々な逞しい体付きをした男は、途中で歩くのを止めて三人に一礼し会釈した。三人は内心で舌打ちしながら柔和な笑みを浮かべる。

「これはこれはジェスタン伯爵、今日もお顔がいっそう気品に溢れておりますな」

「お褒め頂き、ありがとうございます。皆様はこれから王に謁見をなされるのですか?」

「ええ、そうなります。どうです、ジェスタン伯はもう会われたのですかな?」

 ジェスタンは再度の一礼をして、謙虚な姿勢を取り続ける。

「はい、先程謁見をさせて頂きました。やはり、だいぶお顔が優れない様子。例の貴族殺しのことを考えておいでのようです」

「そうですか、誠に痛ましい限りです。貴族殺しなる輩が我々のところにもいつ現れるやも知れません。ジェスタン伯爵も気をつけられた方が宜しいかと」

「ありがたきお言葉に感謝致します。では、私はこれにて失礼させて頂きます」

 貴族達は一礼して去っていくジェスタンにギョロリと目を向けた。内心で渦巻くのは嫉妬感だ。それはジェスタンが王に気に入られているのが原因だった。

 誠実、堅実、謙虚と三拍子揃った賢人の鑑のような人間は、得てして他の人間の信用を勝ち取りやすい。ジェスタンはその三つを持っており、王に厚い信頼を置かれている。民衆からの支持もあるために、国内でも大いに人気もあった。

 それを羨ましい、妬ましいと邪推してみる貴族がいる。ジェスタンが挨拶した貴族たちはそういう考えの持ち主だった。

「あれも襲われてしまえば良いのですがね」

「そうですな、十字のはりつけなぞいかがです? 三日後に生き返ればまさに主の再来ですよ」

「それは面白い。そうであれば、ついぞ大海を割って道を創れるやもしれませぬ」

 貴族たちが冗談を言い合いながら笑う。ジェスタンを言葉でなじり、溜飲を下げていく。

 その後、彼らは近い将来に国が滅ぶと同時、民衆によって自分たちが磔にされた。


     ◇


 サーカスは、人間が人間の限界を超えたパフォーンマンスを見るために訪れる場所である。町ではこの日も賑わいを見せていた。

 石畳の広場では円台で火を噴く男がいる。ジャグリングを披露するピエロが華麗にポーズをとる。ナイフを人間の頭に乗っているリンゴに命中させる女等が観客を沸かせている。

 歓声に沸く中、檻の中に入って猛獣に芸をさせる少女がいた。安全の境界線を飛び越えて、通常の人では殺されてしまう状況で平然としている。少女の立ち振る舞いに観客たちは度肝を抜かれ、興奮したまま様子を窺う。襲われる様子なく幾つかの芸をさせて、檻から無事に出てくるたび拍手喝采が行われた。

 細身の座長らしき人間が観客たちの前に出てくると、次いで縁台が用意される。

「皆様ありがとう御座いますっ!! 盛況につきまして、我が一座から皆様により一層楽しんでいただける催しをご用意させて頂きましたっ!!」

 言って座長が縁台を二度ほど叩く。すると猛獣の檻に入って芸をさせていた少女が、座長の前までゆっくりと歩み寄ってきた。

「こちらは我が一座で最高の芸人、エーヴ嬢で御座います。さて、今からこのエーヴ譲と力比べを皆様に行って頂きますっ! ルールは至極単純にて明快、こちらの縁台の上にてアームレスリングで勝つことだけです。賞金は我が一座の今日の売上金の全てっ!! さあさ、誰ぞ挑戦される方は、おられませんか!?」

 座長が説明を終えると同時、ワッと会場が沸く。非力そうな少女への興味、金への欲求、面白そうな余興、そういった熱気のある感情が場を支配した。

 大の大人が皆一様に、俺だ私にと騒ぎ立てながら挙手をしだす。なかには少女と同い年くらいの子供からも手が上がっている。

「ありがとう御座いますっ! では、そこの方、前へお越し下さい!? 今宵は貴方様で決まりましたっ!!」

 座長が手で指した位置でぬっと、大柄な男が観客席から立ち上がった。

 屈強そうな体格は普通の成人男性と一線を画している。男はゆっくりと縁台へ向かっていく。まるで仕込みかのように、芸人の一人のように観客へお辞儀をした。

「悪いな、賞金は俺がもらって行くぞっ!」

 拳を上に突き上げて、勝利宣言を高らかとして首を鳴らす。観客がさらにワッと沸いた。

 座長は拍手を送り、内心で男の場を盛り上げてくれている男に感謝する。

「こんな簡単なことで、臨時のボーナスとはついてる。やっぱ非番の日の祭りは、こうでないとな」

「よろしくお願い致しますね。逞しいおじ様」

 エーヴと偽りの名を持ったミレアが、小さく微笑みながら挨拶をする。男はそれを見て笑いながら話し掛けた。

「ああ、力は加減してやるから安心しろよ。それじゃなくても、俺の職業は兵士だからな。大人気ない行為は控えるつもりだ」

「まあ、それはありがとう御座います!」

 ミレアが両手の平を合わせて嬉しそうにする。少女の華奢な腕を見た男が、おいおいと苦笑してしまう。

 彼は思わずミレアを本当に相手して良いものかと思った。それくらい、か細い腕に感じてしまったのだ。

「さあ、それでは始めていただきますっ! 両者縁台の上に、腕を乗せてくださいっ!!」

 ミレアと男が縁台の上に互いの片腕をのせる。緊迫した空気が場の緊張感を高めていく。

「少し痛い思いをするが、まあ我慢だな」

「ふふ、お心使い感謝致します」

 男が気遣い、ミレアは含み笑いの余裕を返す。ここで少し、疑問が湧き出した。ミレアが一体どうしてそんなに悠然としていられるのか、腑に落ちなくなり始めたのだ。座長が始まりの合図をとっていく。

「それでは両者とも、準備は宜しいでしょうか!?」 一瞬で決まっては面白くない。男はミレアに呼びかける。

「俺が耐えるほうにまわってやるよ。先攻だ、譲ってやる」

「まあ、お優しいのですね!?」

 ミレアは愛らしく満面の笑みを浮かべた。

「行きます――始めぇ!!」

 次の瞬間には嗜虐的な笑みへと変貌しだす。

「あはは、骨が折れたらごめんなさいな」

 ダンッ!!

「ぐあっ!!」

「あらあら、勝ってしまいましたわ」

 強烈な打撃音と共に、男の手が縁台の端へ打ち付けられる。腰を落とさず構えていなかったために、盛大にミレアの押し倒した腕の方へとひっくり返った。

 熊が案山子にやられたぞと、観客たちが笑い出す。彼らからは男の倒れる姿が、余りにも滑稽に見えたらしい。なにをやっているのかと観衆からの呆れを男は感じ取り、思わずミレアのほうに向かって怒りを露にしてしまう。

 男の内心では、余裕が一つも無くなっている。痛む腕を無視して、赤っ恥を掻かされたと恥ずかしさのあまり、立ち上がって怒鳴り声を出す。

「ふざけるなっ!! 今のは無しだ、もう一勝負だけやらせろっ!!」

「座長様。もう一勝負だけで、このお客様は納得してくださるそうです」

 ミレアが人を食ったような笑みを向ける。男は年端も行かない少女にプライドを傷つけられた気がして余計に怒りを倍増させた。

 座長は苦笑の表情で、その場を盛り上げる。

「皆様、これからもう一度だけの真剣勝負を行いたいと思いますっ!!」

 観客たちからは楽しい余興だと、さらに拍手が巻き起こった。

「よくも恥を掻かせてくれたな。今度は本気でやってやるっ!」

「小気味の良いお返事に、私からのお返しです。今度はこちらが耐える側に、まわって差し上げますわ」

 男が苛立ちながら腕を縁台の上に乗せ、対してミレアは余裕の表情で応じる。座長は組み合うのを確認すると、頷いて掛け声をかけ始めた。

「それでは両者とも再度の準備は宜しいでしょうか!? 行きます――始めぇ!!」

「ふんっ!!」

 男は今度こそ、最初から渾身の全力を発揮する。気迫で押し倒したい方向に、ピクリとも腕を傾けることができない。結果は残酷なほど明らかだった。

「やあね、それが貴方様の全力なのですか?」

 ミレアの人を小馬鹿にした声が男の耳に良く通る。

「舐めるなぁ!!」

 男が額に血管を浮かばせ力をかけると、腕にはしっている血管も表面に浮かび上がった。対して手を組む細い腕には、白々しいほど力がこもっていない。ミレアはその光景を見ながら嘲笑う。

「さてと、殿方にはここでご退場いただきますわね」

 ダンッ!!

「……くそっ!!」

 ミレアが一回目と同じように、綺麗に二回り以上ある腕を押し倒した。男は酷使した手をぶらつかせながら、渋々と負けを認める。

「強いな……。てか、お嬢ちゃんは本当に人間なのか?」

「さあ、どうでしょう。そうであるかもしれませんし、そうでないのかもしれません。貴方様の信じたいようになされれば、それで宜しいかと」

「ああ、そうさせてもらうよ。完敗だ」

 男は乾いた笑いを浮かべ、肩を竦ませた後で観客席に戻って行った。


     ◇


 ある屋敷では一人の男性が、自身の執務室で椅子に座っていた。手の指を机に向けて叩くのは、思考に耽っている独特の癖だ。部屋は月明りの光源だけしかなく、暗い空間が青く染まり上がっている。

「これで何人の人間が死んだのか……。このままでは国が滅ぶな」

 思わずポツリと呟いてしまう。ジェスタンは国における最近の状況が、余りにも芳しくない方向へ舵を切っていると考えていた。

 自身の指を折るだけでは足りなくなってしまった死者。さぞ無念だっただろうと心中で黙祷を捧げる。何の慰みにもならないと解っていても、やりきれない気持ちを抑えることが出来なかった。最近、この国の功労者ばかりが死に急ぐ。残っているのは欲深い連中ばかり、国が抱える病は加速の一途を辿っている。

 誰だ……、と疑問がつきない。相手にとっての益が全く見えない。他国から派遣された暗殺者か。本当に単なる愉快犯的な反抗なのか。義賊という言葉も思い浮かぶ。

 思考に耽り過ぎたのか。視界内でもぞもぞと影が膨らんだことに、内心舌打ちしながら一泊遅れで気づく。

「誰かね? 行儀の悪い客を呼んだ覚えは、私の記憶にはないのだが?」

「こんばんわでございます、伯爵様。今日は、なかなか良い月が出ているとお思いませんか?」

 背後から子供の声が聞こえてくる。国どころか、この地に生きる人間自体が病んでいる。伯爵は悲痛から眉間にしわを寄せ、小さな襲撃者がいることに酷く悲しんだ。

「……貴族殺しか。まさか、子供だとは思わなかったよ」

「まあ、私の姿を見られずとも、お気づきになられるのですわね。あははは、伯爵は勘が宜しいですわ」

「これだけ国中の貴族を殺しているのだ、嫌でも耳に入ってくるのだよ。幼い女の子に命令を下す人物は、余程の罪を重ねたいのだな」

 ジェスタンはその場から立ち上がると、後ろを向いて少女の方を見た。ドレスを纏った少女が恭しく丁寧なお辞儀をする。様になっている礼は、どこかの令嬢のような振る舞いをしていた。

「私の名前はミレア=パドルーと申します。今日は、伯爵様の一つ限りの命を頂きに参りました。余興の御代は頂きません、命だけ頂ければ充分です」

 ミレアの口が三日月のように裂け始める。悪魔のような笑みを向けられたジェスタンが、警戒しながらゆっくりと後ろに下がり始めた。数歩ずつ離れていくが、ミレアは特に気にする風もない。

「命乞いは無いのねぇ。ご立派だわ、ご立派な考えに感服の極みですわ伯爵様。くく、あはははは」

「サーベルを私に持たせてくれる。なぜ余裕を与えるのか、理由を聞かせてくれるかね?」

 カチャリと音を立てながら、ジェスタンは壁に立てかけてあるサーベルを手に取る。鞘からゆっくりと刀身部分が抜かれて行くと、片刃が反射して綺麗な光を放つ。胸中では、不気味な相手に対して幾分の焦りが出始めている。

 武器になるものを何も持っていない、これが最大の原因だ。

 ミレアは視線を外し、笑みも絶やさない。

「私が敵に余裕を与える? 違うわね、それは笑える回答でしかないわ。赤ん坊でもわかるわ、人間の持ち物程度で私が殺されることは無いから。鉄の切れっ端程度に怯えて、一体どうするっていうのかしら?」

「そうか。残酷な話だが、私は家主として家を守る義務がある。それを果たさせてもらうとしよう。出来れば、このまま来た道を引き返してくれると助かるのだがね?」

「無理な相談はしないことね。伯爵様は今ここで死ぬのよ、お休みなさい国の支柱」

 ミレアの双眸が変化を始める。瞳の瞳孔が縦長になると、髪も静電気を帯びたように宙へと浮き始めていく。

 タイミングの良すぎる音。一触即発を止めたのは、ドアの扉が開くものだった。新たに入ってきた人間は、痩せた細長の体をしている初老の男だった。

「悪いがお嬢さん、ジェスタンはうちの大事な跡取りなのだ。手を出されには、些か問題が多いのだよ」

「あらあら、大の大人が二人で私に挑むのかしら? あはは、とても恐いわね」

 ミレアは笑いながら顔を顰めていく。

 おかしい。ジェスタン伯爵よりも、新たに入室してきた初老の男の方が、遥かに堂々としている。とても家主より立場が下には見えない相手に、内心で少しの困惑をし始めた。当主はジェスタンのはずだ。事前にわかる範囲での調査は済ませている。

 初老の男は両手を前で組むと、切れ長の目を少し細めた。

「冗談が好きなようだね、お嬢さん。ジェスタン、私は少しこのお嬢さんと夜の散歩をしてくる。騒ぎを起こす必要はない」

「しかし……いや、軽率でした。ユーグ様のお言葉のままに」

 ジェスタンはサーベルを鞘に収めてユーグに渡す。彼は、一礼して渡される剣を当たり前のように受け取った。身分が確定する、ジェスタンではなく、ユーグという初老の男がこの館の本当の現当主であると。

「あら、もう少しで黄泉路からお迎えが来そうに見えるけど。腰がとうに砕けてしまった殿方に、私のお相手が務まるかしら?」

「貴族殺しか。誰が名づけたのかは知らないが、殺伐として優雅さには少々欠けるね。そう思わないかい、暗闇から引き返して来てしまったお嬢さん?」

「 !? 」

 ミレアに心中で激震が走る。まさか自分以外、生き返った人間がいるとは思っていなかったからだ。直感が告げる、これは一筋縄では行かない。思考しながら、今までとは明らかにあり方が違う目の前の敵を腹の底で警戒する。

 ユーグは余裕の表情でゆっくり歩き出す。ドアではなく、ミレアのいる窓の方へと。

「ジェスタンは留守番だ。その表情では、私はどうやらお嬢さんのお眼鏡に適ったようだね。それでは、夜の散歩に行くとしよう」

 ユーグがミレアの横を通り抜け、窓に足を掛けて飛び降りる。建物の四階以上の高さから平気で飛び降りていく様は、それがミレアと同類という答えを物語っていた。

 ジェスタンは椅子に座りながら話しかける。臨戦体制はとかれ、安心しきったように持たれかかっている。ミレアはねめつける様にして、弛緩しきった獲物を見据える。

「私が今この場で、貴方を殺すと思わないの?」

「それはない。君は行儀が悪いとしても作法は心得ている。品格だ、パドルーと名乗れば王の直系なのだろう? ユーグ様との話し合いが終わるまでは、誇りあれば無粋を好まない」

「人の心を読みたがるのは、はしたない行為よ。品が欲しければ、覚えておくことね」

 ミレアの細まっていた瞳孔が、角度を緩やかにして円状に広がっていく。戦意を失い、つまらなそうにして歩き出す。ジェスタンはことの平穏を望み、無駄な足掻きとばかり説得を試みてみる。

「貴族殺しの君は若いようだが、私はあの方の養子でね。私もユーグ様の年齢を正確には知らない。しかし、あの方は普通の人より大層長く生きている。出来れば、ユーグ様の前では礼節をとって欲しいものだ」

「このあとで殺される貴方が、よくも私にそんな口を訊けるものね?」

「断言しよう、君は負ける。ユーグ様は人間離れしているが、それ以上に智慧のある御方だよ。そしてなにより、あの方は優しい方だ。私もそうだが、ユーグ様ももちろん君には、これ以上罪を重ねて欲しくないと思っている」

 両手を組みながら、ジェスタンは透き通った眼差しをむけた。ミレアはゆっくりと窓へ向かいユーグと同じように窓枠へと足を掛けていく。一つ溜息のあと、捨て台詞の悪態を吐く。

「最初に殺した腸の黒い貴族みたいに、怯えて泣き叫んでくれれば楽しいのに。これだから、自己犠牲の輩はつまらないのよ」

 タンッと、ミレアが空を舞って跳躍する。ドレスが靡き、まるで踊っているかのような光景に見えた。音もなく地面へと着地する。遥か前方をユーグが歩いていた。

 ミレアは振り返って屋敷を一瞥した後で、ゆっくりとユーグのほうへ向かって歩き出した。

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