帳消し中毒
「死ぬほど落ちる!」の謳い文句の白い泡は、何でもキレイにしてくれた。風呂の黒カビ、シンクのぬめり、排水溝の悪臭から、果ては掃除嫌いな彼女まで。汚いヨゴレが白い泡で塗りつぶされていくさまは、連日の仕事で、妥協と忖度と服従に染まったぼくの心を、少しずつ清めてくれた。ぼくはその緑のスプレーを、まるでお守りのように通勤カバンに入れるようになった。てっぺんを回った夜道で、悪臭のするゴミ置きの生ゴミにそっとかけていると、なんだかとてもいいことをしたような充足感があった。
それは危険なことだと頭のどこかで分かっていた。ある日の帰り道、暴漢に襲われている女性を見かけた。ぼくはとっさにスプレーを取りだし、恐るべき事にまったくためらわず、男の顔面に発射した。後日呼ばれた警察で、男が失明寸前になったことをぼくは聞いた。正当防衛にしてもらったぼくにお咎めはなかったけれど、自分が正義感で男にスプレーを向けたわけじゃないことを、ぼく自身が一番わかっていた。わざわざ菓子折りをもってお礼に来てくれた被害女性に、ぼくは罪悪感を告白した。キレイにする快楽に抗えないのだとついもらしたぼくに向かって、今度はわたしがあなたを助けてあげる、と女性はうつくしく微笑んだ。
これが汚部屋の主の彼女と、潔癖症のぼくの馴れ初めである。出張中に小バエの召喚サークルと化したシンクに向かって、ぼくはゴム手袋を構えた。彼女はソファから一歩も動かず、バリバリせんべいの欠片をこぼしながら、テレビで古いアニメを見ている。ぼくは毎日新しい課題を提供してくれる彼女に感謝しつつ、その一方で彼女の将来が心配になる。こんなに怠惰で、もしぼくがいなくなったら、この人は一体どうするんだろう? ぼくみたい人間は、そうそう見つからないはずだ。でもまあ、彼女の人生だ。ぼくはぬめる排水溝に泡を吹きかけながら杞憂を終わらせた。もう子どもではないのだし、彼女も彼女なりに考えがあるのだろう。そんなことより、さっさと帰って荷造りをしなければ。「毎週来てもらうのも悪いし、一緒に住まない?」という彼女の一声で決まった、彼女の部屋への引っ越しの前に、ぼくは五年暮らした自室をピカピカにしなければならないのだから。
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