それは次の雨の日にでも

 雨の人、来てるよと囁かれてわたしは顔を上げた。ちりんとドアベルを鳴らして、真っ赤な傘を持った背の高い男の人が立っていた。必ず雨の日にやってくる常連さんだ。名前は知らない。「この間、神社にいませんでしたか?」いつものブレンドを注文も取らずに運んだ時、わたしは意を決して話しかけてみた。男の人はハッと顔を上げた。重たい前髪をすかして、黒い瞳がまっすぐにわたしを見ていた。

 彼は晴れの日限定の透明人間なのだという。正確には、雨の日にしか他人に認識してもらえないらしい。「普段はどうしてるんですか?」このあと食事でも、と突然さそわれて、ドキドキしながらついてきた素敵な雰囲気のレストランで、わたしはナイフとフォークを上手につかうキツネと対面したかのようにぽかんと口をあけた。彼は肩をすくめた。「普通に生活してますよ。ただ、話しかけても答えてはもらえませんけど」

 彼とのデートは、だからいつも雨の日だった。まとまらない髪も、くるぶしがぬれるのも嫌いだったけれど、彼とおしゃべりするためには仕方なかった。嫌々出かけているうちに、だんだん雨の日の良さも分かってきた。ぬれた花は色が濃くなること。ぬれにくい傘の差し方があること。人少ない遊園地はわくわくすること。長靴で水たまりを踏むのは、大人になっても楽しいこと。彼を好きになるのと同じくらい、わたしは雨の日も好きになっていった。

 雨の日が好きになるのと反対に、太陽が怖くなっていった。きらきら輝く窓にもたれて、誰もいないベッドの上で彼の気配をさがすのには疲れた。わたしが晴れの日に彼を認識できるのは、どうやらあの赤い傘を持っているときだけだった。それも、赤い色がちらりと視界の隅をかすめた気がする、くらいしか分からなくて、話したり触れ合ったりすることはどうあっても無理そうだった。

 付き合って三年目の記念日に、彼は別れようと言った。わたしは軒先から落ち続ける雨粒を見ていた。「晴れてるとき、わたしは何回、あなたの足を踏んだ?」わたしが頼んで短くさせた前髪からは、彼の表情がよく見えた。「結婚しましょう。ただし、踏まれたくなかったら自分で避けてね」

 雨が降りしきる六月に、わたしたちは結婚した。文字という文明が、わたしたちの生活をしずかにつなぎ留めてくれた。「今日は夕立があるでしょう」と顔を曇らせるお天気お姉さんには悪いけど、うちの窓にはずっと、さかさまのてるてる坊主がつり下がっている。お手柄だぞ、と白い頭をつついたとき、赤い傘が見えた気がした。目を凝らしても彼はいない。「今日の帰り、どこか食べに行かない?」暗い廊下に吸い込まれたわたしの声に、返事はない。それでもわたしは、鼻歌を歌いながら折りたたみ傘をカバンに忍ばせる。携帯に届いた彼からのメッセージを読んで、仕事用のカバンをつかむと、気の早いわたしは長靴に足をつっこんだ。

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