まばたき禁止令
まばたき禁止令が発令されたのは、熱中症警報のなり響く暑い日だった。アホみたいな首相の宣言は、けれど至ってマジメに日本中で放送された。一週間後の実施日を、わたしは地下鉄のホームで知った。
近年頻発する異常気象の原因が、増えすぎた人間のまばたきの風にあると発表されたのは半年も前のことだ。世界中が大笑いした論文は、しかしひと月が経ち、ふた月が過ぎると、徐々にバカにする人が消えていった。庶民が知り得ない密やかな取引のあと、世界中で一斉に「まばたきを禁止する」というお達しが出た。もちろん、まぶたを取り除くのも縫い付けるのも不可能なので、地域ごとに一定時間ずつ、家で眠ることが決められた。
東アジアは夏のとある一日に決まった。クーラーは飛ぶように売れ、寝具メーカーの売り上げは五倍に伸びた。その日は一日中、まぶたを閉じてなければならないので、わたしと夫もあわてて荒れ放題だったベッドを整えた。万一トイレに行きたくなったとき、今のままでは、たどり着くまでに三回は異物を踏みつけるのが確実だった。
月のきれいな夜、首相のもったりとした号令で、わたしたちは床についた。すべての電車が止まり、テレビとラジオが沈黙し、代わりに何も知らない鳥と虫の声が響いていた。わたしは夫と、本当に久しぶりに同じベッドに寝転んでいた。昼仕事の夫と夜仕事のわたしは、ここ何年も太陽と月のように互いの背中を見送るばかりだった。アイマスクをして仰向けになるわたしと彼の間には、はがしたばかりの保護フィルムみたいな、産毛を震わせる緊張感があった。
エアコンの音だけが響く暗闇の休日の半分は、まどろみのなかで消えた。けれどおそらく、太陽がてっぺんに来ているだろう頃、さすがに起きた。といっても目の前は暗くて、時計も見えないし、正確な時間はわからない。夫の寝息はしずかで、居るのか居ないのかすら分からない。ふと、夫が死んでるんじゃないかと不安になった。夫は本当に隣で寝ているのだろうか。もしかして、これは全部どっきりで、いつものように起きて仕事に行ってしまったんじゃないだろうか。そもそも、わたしは彼と本当に結婚していたのだったか。わたしが彼と、歩み、嘆き、笑い、ねぎらい、歌った日常は、本当に存在していたのだろうか。
指先になにかが触れた。はっとこわばるわたしの手を、わずかに高い温度の指先がにぎった。思い出すのに少し時間がかかったけれど、それは間違いなく夫の手だった。少し湿った彼の手から、欠けた世界がじわじわと広がっていく。わたしはそっとにぎり返し、しっかり目を潤しておこうと決めた。アイマスクが外れたら、しばらくまばたきはしたくないだろうから。
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