そこから呼ぶ声
斬れないものなど何もなかった。959人目を斬ったその夜、血で汚れた体を清めようと向かった先の井戸の底から、這いのぼるそいつを見つけた。長い髪で顔は見えず、白い襦袢姿のそいつはたぶん、俗にいう幽霊だったんだろうが、敵ではないので気にせず隣で水を浴びた。すっきりして手ぬぐいで顔をぬぐうと、そいつは三歩離れたところにまだ立っていた。じっとこちらを見つめてくるのがうっとうしくて刀を振るったが、当然斬れるわけがなかった。俺は人斬りで、坊主ではない。
何が気に入ったのか、そいつはそれから俺のあとをついて回るようになった。長屋ではじっと三和土の隅に佇み、外に出れば三歩離れてついてくる。世は幕末で、巷には恨みつらみが跋扈していた。俺はそんなドロドロを飯のタネにして、日銭を稼いで生きていた。もらったばかりの金を一晩で使い切り、次の朝にはまた別の誰かを斬って、金をもらった。そいつはただ、そんな俺のあとをずっと付いてきた。そしてときおり、まるで斬られる誰かを庇うかのように、俺の間合いに入ってきた。誰かをかばおうと、あるいは俺を止めようとするそいつに苛立ち、何度か怒鳴りつけてみたものの、返事はなかった。立ちふさごうと、刀はそいつをすり抜けてしまうので、かばわれたはずの獲物は皆死んでいった。バカな真似だと罵っても、そいつは辞めなかった。黙ってそこに立ち尽くすさまは、妻にそっくりだった。こいつはきっと、妻なのだろう。病弱な彼女の薬代を稼ぐために、殺しばかりする俺を細い腕で押し留めてきた、こんなことはもうやめようとすがり、ある日、勢いあまって殺してしまった妻なのだろう。死してなお、俺を止めようとしているのだろう。999人目を切ったとき、俺はついに声を上げた。「俺に恨みがあるんだろう」血でぬらりと光る刀をむけも、そいつは微動だにせず、その様子にまた腹が立った。「なんとか言ったらどうなんだ!」
幽霊ばかりに気を取られて、俺は獲物にとどめを刺しそこなっていたと気づかなかった。背中に熱い痛みを感じて、気づくと地にふせていた。だくだくと流れていく自分の血液に、ああ死ぬのかとそう思った。いつかはこんな日が来ると分かっていた。ほんの少しだけ、安堵する気持ちもあった。もう、斬らなくてもいいのだ。刀ではなく、そこで待つ妻の手を取ってもいいのだ。
冬の海のような冷気が頬をかすめて、うすれゆく意識のなか目を開けた。あいつが長い髪のすきまからのぞき込んでいた。「ようやく死んでくれましたね」こめかみまで裂けた口で、そいつは笑った。その顔は、妻ではなかった。男も女も、老人も赤子も、いろんな顔が混じり合って、次々に浮かんでは別の顔に代わっていった。
「お望み通り聞くがいい。我らの恨み、永遠に」
ぽっかりと開いた黒い口の中に、俺の意識は吸い込まれた。深い深い井戸の底から伸びてきた、怨嗟の手が、べったりと頬に張り付いた。
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