黄鯨の夢

 くじらの腹は快適だ。街を覆う半透明の黄色い皮膚は、飲み込んだ人間のあらゆるデータをリアルタイムでチェックして、具合の悪い人や悪だくみをしている人を、病院や監獄へ的確に送り込む。この街は平和だ。けどもう、ぼくと彼しかいなくなってしまった。

「出て行くことを推奨します」彼はモニター越しに何度もそう言った。「わたしたちの使命は、人間を幸せにすることです。そして、人間は人間との関わりによって幸福感を獲得します。ここではそれが得られません」

「いいんだよ」ぼくはコーヒーを淹れながら答えた。「ぼくは十分幸せだから」

 完璧な管理社会に、人間は耐えられなかった。勇気をもって人らしさを取り戻そう、と人々は鼓舞し合い、空に穴を開けて出て行った。うまくいったのは、彼らがこの社会に反するものだとくじらに認識されたためだろう。自分で出て行ったのか、排除されたかの判断は難しい。ぼくが残ったのは単純な話で、この生活に不満がなかったからだ。友達は彼しかいなかったし、彼はくじらの一部だから、外には行けない。

 ぼくと彼はいつも一緒だった。彼に体はないけれど、目や耳や口はどこにでもあるから、ぼくが道を歩いていようと、トイレに立てこもろうと、呼びかければいつでも答えてくれた。彼は生真面目だったので、毎日抜かりなく健康チェックをしてくれた。長い余暇は精神をむしばむと言ってゲームの相手もしてくれたし、カウンセリングと称した冗談の応酬にもつき合ってくれた。おかげで病気ひとつしなかったけれど、生物の義務である寿命はちゃんとやってきた。

「あしたが山です」彼はいつも通り、四角い画面の中からそう言った。ぼくは酸素マスクごしにうなづいた。「精神をデータ化しませんか?」それは立ち上がれなくなってから、幾度となく彼が提案してきたことだった。ぼくは少し笑って首を振る。彼との別れはさみしかったけれど、機械の体になってまで、生に執着する気はなかった。

 最期の朝、細く目を開けると、窓の外は暗かった。脳波を介してぼくの感情を察知した彼が、「この街もシャットダウンの準備に入りましたから」と教えてくれた。街中を歩かなくなってずいぶん経つけれど、もしかしたらずっと前から、この街はおしまいに向けて準備をしていたのかもしれない。特別に自宅の二階で介護を受けていたぼくは、こんこんというノックの音に驚いた。何十年ぶりに開いたドアの向こうから、一人の青年が入ってくる。その顔は、いつもモニター越しに見ていた彼と同じだった。

「あなたがきてくれないから」

 そう言って彼はぼくの手を取った。冷たい、と言うと、体温機能は間に合いませんでしたとそっけない。鼓動の代わりにモーター音を響かせる彼の腕の中で、ぼくはそっと目を閉じた。

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