みそめ通りでさようなら

「もし、そこの旦那様」

 背後からそう声を掛けられたとき、うっかり振り返りそうになったのを、ぼくはぐっとこらえた。「とーちゃん。見初め通りに出るユーレイの話、知っとる?」娘の楽しそうな声がよみがえる。気づかないふりをして歩を早めると、からんころんと石畳を叩く高下駄の音も早くなる。うん? 足音?

 振り返った先にいた女には足があった。勘違いを恥じ入りながら、「なんでしょう」とぼくは訊ねた。

「ハンカチーフを落とされましてよ」

 女性はあでやかな笑みを浮かべて、白いそれを差し出した。「これはご親切に」とぼくは動揺を押し殺して頭を下げる。うつくしい芸妓だった。すっとした目元、ちいさな鼻、ちょこんと置かれたくちびるは、寒椿のように赤い。昔はぼくも、人並みに芸妓と遊んだものだけれど、娘が生まれてからというもの、男たちにはべる彼女らにどうにも複雑な心地がして、足が遠のいていた。うなりを上げる車輪が土埃を巻き上げる。ぼくは軽く会釈をして、帰路を急いだ。

 それからというもの、仕事帰りにたびたびその芸妓を見かけるようになった。彼女はいつも門の前に立っていて、ぼくに気づくと優雅なしぐさで手を振った。営業だろうかとも思ったけれど、彼女ほどの芸妓なら、そんなことをしなくたって太い旦那がついているだろう。彼女のまとう着物はいつだって上物で、一度だって同じ柄のものはなかった。彼女には、美化された思い出のようなせつなさがあった。彼女と目が合うたびに、忘れていた思い出がふと胸に去来したときのような、苦く懐かしいような気分になった。

 その日もいつものように、彼女は門の前に立っていた。目のあった彼女へ小さく手を挙げたとき、突然馬のいななきが通りに響いた。まっすぐに、我を忘れた馬の目がつっこんでくる。ぼくはとっさに、彼女を路地裏に突き飛ばした。

 馬車はぼくらが立っていた軒先にぶつかり止まった。くずれ落ちた一角で、奇跡的にぼくと彼女は無傷だった。ぼくはようやく、彼女を守ることができたのだ。しゃがみこみながらも、ほっとした笑みを浮かべた彼女の顔を見た瞬間、差し伸べていた指先がくずれた。

「成仏できそうかい? とーちゃん」と彼女は訊いた。よくよく見慣れた笑みだった。大変な苦労を掛けてしまったにもかかわらず、いまや立派に成長した娘に向かって、ぼくは両手を広げた。幼子のように駆け寄ってくる彼女のなつかしい香りに包まれながら、ぼくはそっと目を閉じた。

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