いとしの静寂 エデンの底

 なべ底を引っ掻きながらアスファルトに打ち付け、その中で鈴を炒めて鐘に投げ入れたような音にわたしは驚いて目を覚ました。左耳の耳栓が外れている。まくらをさぐって、落ちていた耳栓を慌てて耳にねじ込んだ。ようやく訪れた静寂に、わたしはほっと息をつく。

 世界中の生き物が一斉に喚き始めて一年が経つ。サバンナのゾウから茂みに潜むマツムシまで、種を越えた生き物がひと時も休むことなくはじめた大合唱に、世界中は大混乱に陥った。あらゆる場所で殺虫剤が撒かれ、防鳥ネットが吊り下がり、電気柵が立てられ、猟銃が火を噴いた。それでも、ほんの小さなすき間をぬって、彼らは人間の住処に声を届けた。ある人は世界の終わりだと嘆き、別の人が今こそ動物たちを人類から解放すべきだと訴え、またある人は彼らを排除すべきだと主張した。ノイローゼ患者が続出し、音声を使ったコミュニケーションは死に絶えた。政府から高性能の耳栓が配られ、企業はノイズキャンセラーを次々と生み出し、けれどふとした瞬間耳を貫く大合唱は、人類を疲弊させるのに十分だった。

 端末を確認する。乗船時刻まであと四時間。窓の外は良く晴れていた。ポチの散歩日和だと思いかけて、頭を振る。端末にメッセージが来ていた。『ちゃんと起きた? うすのろ』わたしは無表情で返事をする。『起きてるよ、耳なし』

 今日、わたしは海の底に移住する。音から逃れるために、人類は地底か海底に逃げ込むことにした。少しずつ進んだ全住民移住計画は希望制だったけれど、ほとんどすべての人間が静寂を求めて移り住むことを希望した。耳栓をはめ直してからホテルを出ると、白い槍みたいな太陽の光がわたしの目を貫いた。潜水艦までの桟橋は、長い行列ができていた。その傍らに、捨て置かれたバス停みたいにぽつんと佇む影がある。彼女はわたしに気づくと、リードを持っていない方の手を上げた。なにしにきたの、とわたしは口を動かした。彼女は何も詰まってないきれいな耳に髪をかけてから、見送り、とでもいうようにわたしを指さした。

 今、この地上は、聾者のものだった。彼らだけはこの音の大洪水のなかで、まるで神の加護があるかのように自由だった。涼しい風に黒髪をゆらした彼女の下で、ポチが狂ったように吠えている。動物は海の底に連れていけない。

 流れから抜け出して、わたしはふたりに近づいた。ポチが千切れんばかりにしっぽを振っている。その体を抱きしめた。腕に伝わる温かさも、うなじにつき刺さる太陽も、頬を撫でる水気を含んだ風も、足の裏に感じる土も、それから今、さりげなくわたしに日傘をさしかけている口の悪い幼なじみも、あの船に乗ってしまえばもう、二度と感じられない。

 わたしの肩を彼女が叩いた。地上にいるのはもう、わたしと彼女とポチだけだった。わたしは首を振った。彼女は、質の悪い製品を求める客に、正気かと問うような顔をした。わたしは耳栓に触れた。ノイズキャンセリング付きの電子機器には、もう一つ機能があった。

 鼓膜が破れ、有毛細胞を死滅させる毒が流れこんでくる瞬間、世界に別れを告げる汽笛が聴こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る