きつねのくちづけ

 「大学校内一のおっちょこちょい」と名高い彼にはクセがあった。三枚目になる学生証再発行申請書を受け取りにきた時に、そのクセについてカウンター越しに聞いてみたら、「うまくいくおまじない」だと彼は言った。受験の時にお世話になってから、どうにもクセが抜けないのだと笑う彼は、「今度こそ間違えてないはず」とキツネの形で三回申請書を叩いてから、わたしに申請書をつき出した。おまじないのおかげか、一回目は書き直しばかりだった申請書も、今回は日付の書き忘れだけで済んでいたけど、単に慣れただけの可能性が高かった。

 こんな調子で単位が取れるのかと、わたしたち事務員はずいぶん気をもんだけど、彼はなんとか進級できたようだった。二年後、就職支援課に異動したわたしの前に現れた彼は、おどろくほど変わっていなかった。そそっかしくて、うっかりミスが多くて、けれどどんな時も一生懸命だった。右手をキツネの形にして、ちいさく三回紙を叩くおまじないも変わっていなかった。

 予想通り彼の就活は、ほかのどの学生よりも困難を極めた。わたしは三年前に終えたばかりの就活の記憶をひっぱり出して、彼のエントリーシートを何十枚とチェックし、封筒の宛名の書き方を教え、電話対応セミナーを案内し、模擬面接につき合った。彼は痛いくらいに真面目だった。悲しくなるほど丁寧だった。ぴんと伸びた背筋はうつくしかったけれど、固すぎて上手に曲がれなかった。「かしこまりました」がどうしても滑らかに言えない彼の将来はなかなかに不安だったけれど、なんとか卒業間際に内定をもらえたようだった。彼はわざわざ菓子折りを持ってあいさつに来てくれた。今までありがとうございました、とカウンター越しに差し出された包みに、じわりと胸が熱くなった。ありがとう、きみも新社会人がんばって、と箱を抱えて頭を上げたとき、彼の右手がキツネの形になっていることに気づいた。

 箱の中には薄ピンクの封筒が入っていた。食事に誘う文面の下に、彼の連絡先が書いてあった。わたしは満開のさくらの色をしたそのカードをじっと見つめてから、こっそり彼の真似をして、キツネの鼻先でカードをつついた。それから立ち上がって、シュレッダーの口に封筒ごと放り込んだ。

 一か月後、わたしは産休に入った。全国で入社式が始まるころ、女の子が生まれた。

 まだやわらかい小さな額に、わたしは今日もキツネのキスを送る。

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