24.彼女と仕事の話
「今は日々、仕事を終わらせるだけで精一杯で、生活を楽しむ余裕もありません……」
田村様が海外で仕事をバリバリされている方なので、自然と相談するような形で、私は話し続けていた。
彼女は相槌を打ちながら、私の話を真剣に聴いてくれていた。
「そうね……仕事だけ充実していても、生活に張りがないですよね。仕事が楽しい、やりがいがあるからこそ、『もっと私生活も充実させたい』って思うのは自然なことじゃないかしら……」
「……仕事をしてお給料をもらい、好きな洋服や雑貨の買い物をしたり、時々、友人に会って食事をしたり……以前は、そういう時間を過ごせることが当たり前で、有難いと思ったことはありませんでした」
田村様の相槌の頻度が高くなる。
彼女も私と同じようなことを思ったことがあるのだろう。
「自由な時間がなくなるほど、そういう何気ない時間の貴重さに気づくのよね……『心身共に余裕を持てるように働き方を変えてみる』そういう風に考えたことはないですか?」
従業員数が少ないルミエールでは、たまの休みを取ることさえも難しく、どうにもできないのが現状だった。
「今すぐに勤務体制を変えるのは難しいと分かっているので……」
叔母さんも年明けには人員を増やすと言っていたし、また状況が好転するかもしれない。
「実は私から提案があるんですけど……」
田村様はそう切り出し、私が想像もしなかったことを話し始めた。
「翠川さん、私が片桐さんに仕事後、何を話しているのか気になされてますよね?」
田村様は回りくどい言い方はせず、ストレートに私に尋ねた。
「え、ええ……はい。気になってます」
私も覚悟を決め、思っていることを正直に話してみようと思った。
「私が今回、日本に来た目的を片桐さんに聞いていますか?」
「はい、和食店のリサーチですよね。あちらで開店予定のお店の為に、参考にされるとか……」
「ええ、そうなの。ただね、和食のお店をオープンするうえで、フランス料理にも和食にも精通した人材をシェフとして迎えたいと思ってるの。和食でもフランス人が好みそうな味付けにアレンジして欲しいと思っていて……」
その先は聞かずとも想像ができた。
「…………」
「片桐さんをシェフとして、うちの店に迎えたいと考えています。勿論、ルミエールさんにはご迷惑をかけてしまうことも承知しています。もし、彼に承諾をもらえたら、私の知り合いで日本在住の優秀な料理人を二人、御希望であれば他にホールスタッフも併せて何名か、こちらに御紹介できればと思っています」
彼女の独りよがりな提案に怒りが込み上げてくる。
「あの……片桐さんは何て言ってるんですか?」
「見ていてお分かりだと思いますが、彼はルミエールのことを大切に思っていて、いい返事をもらえていません……申し訳ないけれど、私の本音を言わせてもらえば、明子さんは従業員の皆さんに無理をさせているようにしか見えないんです」
海外でお店を何件も経営し、様々な経験を積んできたであろう田村様の厳しい言葉だった。
「人員不足で従業員の皆に負担がかかってしまっていることは、私もオーナーも分かっています。ですから年明けに調理担当をもう一人増やす予定です」
「そうね……片桐さんは、それで今より少し楽になるかもしれない。だけど、ホールスタッフの悠馬さんは? 翠川さんだって、いつもヘルプに入るわけにもいかないでしょう?」
田村様の言っていることは、いちいちもっともで、少しでも気を抜いたら言い負けてしまいそうだった。
「田村様は、これからも片桐さんを説得されるおつもりですか?」
「そうですね……彼の料理の腕は今も変わらず確かなもので、ますます磨きがかかったように思います。もし彼の料理を改めて食べてみて、腕が落ちたと感じたら、この提案はせずにフランスへ帰るつもりでした」
田村様の表情が、片桐さんの作る料理にすっかり魅了されていることを如実に物語っていた。
「すみませんが、この件で私から片桐さんに口添えして欲しいというお申し出でしたら、私はお受けすることはできません。私にとっても、ルミエールにとっても、彼は一流の料理人であり、かけがえのない仲間ですから……」
私の心は決まっていた。
田村様がお客様であろうと、片桐さんと旧知の仲であろうと関係ない。
(片桐さんを田村様に奪われたくない)
改めて強く、そう思った。
「翠川さん、それからもう一つ……」
「なんでしょうか?」
「私と片桐さんは、昔も今も、お付き合いしてませんから……」
「い、今、そんなこと関係ありませんよね⁉」
「……気を悪くされたのなら、ごめんなさい。ただ、翠川さんの私に対する態度を見ていたら、『片桐さんのこと好きなんだな』って思うことが何回もあったから……」
体中の血が一気に顔まで駆け上っていき、動悸が激しくなる。
(恥ずかしい……そんなことを指摘されるなんて)
私は何と答えていいか分からず口を噤んでいた。
「彼にはフランスにいた時から、今でもずっと大切に思っている女性がいるんです」
と田村様は言い、昔を思い出すかのように遠い目をした。
「……えっ⁉」
私は思わず声を上げてしまった。
「ごめんなさい。彼のことを勝手にペラペラと話す訳にはいかないから、私の口からは、これ以上、何も言えません……当時、私も彼のことを素敵だなと思ってたんだけど、私のことなんか全然眼中になかったの」
「田村様は今も片桐さんのことを?」
「もう昔のことです。今、私にはフランス人の彼氏がいます。今回、片桐さんをシェフとして誘っていることは、昔、彼に抱いていた私の感情とは一切関係ないから安心してください」
「えっ⁉ あ、はい……」
田村様から、いろいろなことを一度に打ち明けられ、私は、ただただ驚くばかりだった。
「ごめんなさい。結局、翠川さんには、あまりいい提案にはならなかったみたいですけど……どうか、ルミエールの従業員の皆さんと片桐さんのシェフとしての今後のこと、一度、考えてみてもらえませんか? 勿論、片桐さん本人が納得してくれないと話の進めようもないんだけど」
「分かりました。オーナーとも一度話をしてみます。私の気持ちは変わることはないと思いますけど……」
その後、私はどうしても田村様と、夫々の部屋がある二階まで一緒に戻る気になれず、彼女をその場で見送った。
食堂の時計の秒針の音がやけに大きく聞こえ、私を攻めたてるように響いた。
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