23.思わぬ提案

 私が頭を上げると同時に食堂のドアが開き、厨房の後片付けを終えた片桐さんが現れた。


「田村さん、翠川さんもどうしたんですか?」


「あっ、その……」


 慌ててしまい言葉に詰まる私の背中に、田村様は軽く合図をした。


「あのね、翠川さんと少しお話ししたくて……」


「そうだったんですか、じゃあ、食堂の鍵を翠川さんに預けてもいいですか?」


 片桐さんは、この状況を疑う様子もなく、私に鍵を差し出した。

 私は『え⁉』と思いつつも、田村様が機転を利かせて助け舟を出してくれたことは分かっていたので、何も言わずに鍵を受け取った。


「それでは、僕はこれで失礼しますね。おやすみなさい」


「片桐さん、また今度、この間の話の続きいいかしら?」


「……あ、はい」


 片桐さんは心なしか沈んだ声で返事をし、私達の前から去っていった。


 ◇


 私と田村様、二人きりで、静けさが満ちている食堂に佇んでいた。


「あの……先ほどは、ありがとうございました」


 田村様のお陰で、片桐さんに余計な心配や迷惑をかけずに済んだ。


(私って、ほんとに子供だな……)


 思い返すと恥ずかしくなり、この場からいなくなってしまいたくなる。


「いいえ、私の方こそ翠川さんの言うとおり、自分よがりでした……」


 私達は暫く、お互いに頭を下げてばかりいた。


「プッ……」「フフフ……」


 そんなやりとりが何だか可笑しくて、いつの間にか二人とも笑い始めていた。


「……翠川さん、さっき言われておきながら、こんなこと言うのもおかしいんですけど、せっかくだから少しお話ししていきませんか?」


 田村様からの思わぬ提案だった。


 私も自然と嫌な気持ちはせず、彼女と分かり合う為にも話をしてみようと思った。


 二人でテーブルに向かい合って座る。


「翠川さんはルミエールのコンシェルジュになられてから、どれくらい経つんですか?」


「来年の三月で一年になります」


「そうですか……それまでは、どんなお仕事を?」


「ただの派遣社員です。事務の……」


 思わぬタイミングで退職することになってしまったことは、まだ少し自分の中で蟠りわだかまとして残っていた。


「ごめんなさい、私は海外が長いのでよく分からないんですが……派遣社員と正社員ってそんなに違いがあるんですか?」


「はい、お給料面や福利厚生も全然違います」


 私は洗いざらい、派遣社員の時に感じていた不満を全て田村様に話した。

 すると、彼女は穏やかな表情を崩さずに、


「……そうですか、大変でしたね」


 と、私に同調してくれた。


 ところが、それから少し間をおいて、


「翠川さんは、そのお仕事が好きでしたか?」


 と核心を突く質問を投げかけてきた。


「……はい、嫌いではありませんでしたが、『好き』というのとも、また違いました」


 上手く説明できなかったが、それが私の本音だった。

 やりがいもそれなりに感じていたし、特別苦手な人や、感じの悪い人が職場にいた訳でもない……

 当時も、改めて振り返ってみた今も、その仕事を『好き』と断言することはできなかった。


 田村様は、拙い言葉を並べただけの私の話を根気よく聴いてくれていた。


「翠川さん、それはきっとその仕事に何処か義務感を感じていたからじゃないですか? 『好き』という気持ちよりも『生活の為』とかそういった……」


(誰だって『好き』を仕事にできたらと思うけど、現実的には『生活の為』とか金銭的な理由が殆どじゃないのかな……)


「はい、正直に言えば、そうです」


 田村様に秘かに試されている気がしたけど、嘘や綺麗ごとは言いたくなかった。


「今の……コンシェルジュのお仕事はどうですか?」


「この仕事は好きです。ただ……」


 コンシェルジュの仕事も始めのうちは、忙しさに追われるだけの日々で、自分に適性があるのか、本当にやりたいことなのかも分からなかった。


 それがいつの間にか、御入居者の方々やカフェのお客様方に接しているうちに、『お客様の日々の疲れを一時いっときでも忘れさせ、安らげる時間を提供できるよう最善を尽くす』というコンシェルジュの仕事をするうえでのポリシーを持つようにまで、意識が変わってきた。


 派遣社員の時と比べれば、遥かに仕事が楽しく、やりがいも感じていて、毎日が充実しているはずなのに……


「……ただ?」


 いつも柔らかな雰囲気の田村様が、私を正面から真っすぐ見据えていた。






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