16.片桐さんとジンジャーティーを

 ――時計の針は21時半を回っていた。


「翠川さん、一休みしませんか?」


 片桐さんが作業の合間に厨房から、飲み物とお茶請けのマカロンを持ってきてくれた。

 カップから、スゥーっと爽やかな香りが立ち上る。

 その湯気を吸い込むと、椅子に溶けてしまいそうなくらいに、心も体も解れていった。


(ジンジャーと……これは、はちみつの香りかな?)


 香りを楽しみながら、ゆっくりとカップを口に運ぶ。


「このジンジャーティーはノンカフェインなんで御安心を。そういえば、マカロンは高カロリーでした……こんな時間に食べたら体に毒ですけど、どうします?」


 そう言って片桐さんが悪戯っぽく笑う。


(片桐さんも、こんな風に笑ったりするんだ……)


 ここまで打ち解けた様子で話す彼の姿を私は今まで見たことがなかった。


「いいえ、疲れてるので食べちゃいます!」


 マカロンの甘美な誘惑と、このシチュエーション、断れる訳がなかった。


「そんなに美味しそうに食べてもらえると嬉しくなりますね」


 片桐さんはテーブルに頬杖をつきながら、私をまじまじと見つめていた。


「片桐さん、女性は食事をしている時に、あまりじっーと見られていると恥ずかしいものなんですよ」


 私は精一杯、平静を装った。

 今日の片桐さんは反則に近い。


「あっ、そうですよね……すみません」


 と片桐さんは言い、照れくさそうに頭を掻いた。


「片桐さん、あの……ちょっと気になっていることがあるんです」


「はい、なんでしょうか」


 片桐さんは椅子を引いて座り直すと、私の目を真っすぐに見つめた。


「田村様なんですが……最近、夜も外出されていて、夕食もルミエールでお召し上がりにならないんですが、何か理由を御存知ですか?」


 自分で質問をしておきながら、その理由が片桐さんに関係することだったらどうしようと今更、怖くなる。


「ああ、それなら心配いりませんよ。彼女も一言、皆さんに伝えておけばいいのに……彼女、この近辺の有名な飲食店をリサーチしてるんですよ」


「えっ、そうなんですか⁉」


 片桐さんは私のことを落ち着かせるように、微笑みながらゆっくりと頷く。


「はい、彼女が日本での滞在を延長したのも、いろいろな和食の店を食べ歩いて、フランスで新しく立ち上げる店の参考にしたいからなんです」


「……そうだったんですね。安心しました。他の御入居者様も気にかけていらっしゃったので……」


「それって長谷川さんのことですか?」


 片桐さんの率直な問いかけに、思わず体がびくっと反応する。


「いえ、その、お二人ともです……」


 私の答えを聞いて片桐さんが苦笑いを浮かべる。

 石川様も、田村様がルミエールで夕食を召し上がらないことを気にかけていることは確かだ。


「まぁ、主に長谷川さんですよね……彼の反応を見れば分かります。僕に対して、以前より余所余所しくなられましたしね」


(そういえば長谷川様は、この間の夕食の時、片桐さんにライバル心を剥き出しにしていたっけ……)


 このままだと、片桐さんと長谷川様の関係が悪くなってしまう気がした。

 私は思い切って片桐さんと田村様の関係について、もっと詳しく訊いてみようと思った。


 一度深く息を吸い込んでから、意を決して話し始めようとした、その時、食堂のドアがゆっくりと音を立てて開いた。


 開いたドアの隙間から、叔母さんと田村様の顔が、さながら泥棒一味のように、縦に二つ並んで覗いていた。


「失礼しまーす……」


 と叔母さんが抑えた声で言い、田村様と一緒に、こちらに向かって歩いてくる。


「何かあったんですか⁉」


 出鼻をくじかれ、片桐さんに話を訊けなくなってしまった苛立ちで、ついきつい口調になってしまう。


「驚かせてしまってごめんなさい。今日は帰りが遅くなってしまいそうだったので19時位にこちらに電話をしたんです。そうしたら明子さんが電話に出られて……それで先ほどエントランスの鍵を開けて頂いたんです」


(叔母さんからエントランスの鍵の件で『私が対応しておくから』ってスマートフォンに連絡はもらっていたけど……なんで二人は此処に来たんだろう……)


「私は二人がまだ仕事してるんじゃないかって気になってたから、こうして様子を見に来たってわけ……」


「そうだったんですね、ありがとうございます」


 叔母さんは私達のことを気にかけて食堂に来てくれたようだ。


 時計の針は、もう22時を過ぎている。


「じゃあ、二人は仕事を終わらせて……今日は、もう休む! 田村さんは片桐さんとお話したいことがあるのよね? じゃあ此処でこのまま、お話ししていくといいわ。片桐さん、鍵はよろしくね」


 そう矢継ぎ早に言うと、叔母さんは無理矢理、私の腕を取って食堂を出た。


「あの……叔母さん、片桐さんは、あのまま置いてきてよかったんでしょうか?」


 片桐さんだって、かなり疲れているはずだ。

 田村様が友人とは言え、この時間から話をすることを強いられたら、彼だって少し迷惑に思うかもしれない。


「私だって考えたわよ……でも彼女が、どうしても二人で話したいことがあるからって」


「…………」


 田村様は少し強引だ。

 私なら、夜遅くまで仕事をしていた片桐さんと、事前の約束もなく、この時間から話をしようとは思わない。

 彼女は片桐さんの意思を確認しなくても、断られないという自信があるから、こういう行動を取れるのだろうか。


 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、私は自室に戻ると、ベットに洋服を着たまま倒れ込んだ。

 合間に休憩を挟んではいるものの、朝から晩まで働いて、プライベートな時間は皆無に等しい。


(明日は悠馬さんに一日お休みしてもらうし、私がここで体調を崩す訳にはいかない……)


 僅かに残った力を振り絞って体を起こす。

 それから疲れた体を引き摺るようにしてシャワーを浴び、寝支度を済ませてベットに体を横たえると、私は数秒のうちに深い眠りに落ちていった。

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