11.22時厨房で

 食器類の後片付けと翌日の販売用スイーツの準備を終えると、厨房の時計の針は、既に22時を回っていた。


 片桐さんは時計を見上げ、


「もう、こんな時間か……」


 と溜息まじりに呟いた。


(これから、片桐さんが田村様のお部屋に……)


 抑えていたどんよりとした感情が甦ってきそうになる。


「翠川さん、できましたら、これから食堂を少しお借りしてもいいですか?」


 片桐さんの意外なお願いに少し驚きつつも、


「あ、はい。勿論、結構ですよ。戸締まりさえして頂ければ」


 と私が答えると、片桐さんは、ほっとしたような表情を見せた。


 食堂は衛生、防犯上の観点からも、最後に使用した人が必ず鍵を掛け、従業員控え室にあるキーボックスに鍵を返す決まりになっている。


「ありがとうございます。古くからの友達とはいえ、この時間から女性の部屋を訪ねるのは、どうかと思いまして……」


 苦笑いを浮かべながら片桐さんが言う。


 私は片桐さんの誠実さを改めて知り、嬉しくて、喜びが表情や声のトーンに出てしまうのではないかと不安になった。


「すみません。私と悠馬さんで明日の準備が出来れば、もう少し早く上がっていただけたのに……」


「いえいえ、スイーツの仕上げは、私がやらないと……」


 片桐さんや悠馬さんに、またオーバーワークをさせてしまった。

 私が申し訳ないと思っていると、悠馬さんが、にやけた笑みを浮かべ、私を肘で軽くつついた。


「良かったね、お部屋じゃなくて……」


 と私だけに聞こえるような小さな声で、悠馬さんが囁いた。


「うるさいっ!」


 私は肘鉄を悠馬さんにお見舞いする。

 その様子に驚いた片桐さんに『お疲れ様でした』と挨拶をし、脇腹の痛みに耐える悠馬さんを強引に連れて食堂を出た。


 その後も私と悠馬さんの攻防戦は続き、ふとした拍子に大きな声を出してしまいそうになるのを堪えてエントランスまで歩いた。

 そこから御入居者の方や私達の自室がある二階に続く階段を無言で足音に注意しながら上る。

 階段を上りきった所で悠馬さんに一言『お疲れさま』の挨拶をし、自室に帰ろうとしたら、


「そういえば、環ちゃん。片桐さんが田村さんの部屋に行くことを凄く気にしてたみたいだけど、考えてみたら俺と環ちゃんも、前に部屋で二人きりになったことあるよね?」


 と悠馬さんが私の最も触れて欲しくない話題を持ち出した。


「それとこれとは別っていうか……」


 私が言葉に詰まっていると、悠馬さんが見透かしたような目で私を見つめ、


「環ちゃんも結構、自分本位なところがあるんだね~」


 と、さらに私に追い討ちをかけた。

 確かに彼の言っていることは御尤もごもっとだ。


「あの時は、私が軽率でした……品行方正な生活を送らなきゃね。今後は悠馬さんを部屋に入れないことにする! 」


 そう私が悠馬さんに宣言すると、お洒落な部屋着に暖かそうなロングカーディガンを羽織った田村様が、いつの間にか現れて、


「お二人は、とっても仲がいいのね」


 と大人の余裕を感じさせる穏やかな口調で声をかけられた。


(え!? もしかして、今の話、田村様に聞かれてた?)


 私が狼狽えていると、


「そうですか? 環ちゃん、俺達、お似合いだって」


 と、田村様の言葉を拡大解釈した悠馬さんが余計な一言を付け加えた。


「あ、あの……違うんです。悠馬さんとは男女の垣根を超えた仲間と言いますか……えっと、その……」


 しどろもどろになっている私の様子を見て、二人が顔を見合わせてプッと吹き出す。


「ごめんなさい。からかうつもりで言ったんじゃないんです……それじゃあ、私はこれで……おやすみなさい」


 田村様は、そう言うと、ゆっくりとした足どりで階段を下りていった。

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