10.お客様をお見送りして

 私はコンシェルジュであることも忘れ彼女に抱きつく。


 ……こんなんじゃ、どちらが年上か分からない。


 菫ちゃんを、一人の大切なお客様として、悠然と送り出さなければと思っていたのに……


「環さん、……泣かないでください。どうか環さんも強くなってください。私も心が折れそうになった時、大切な言葉を環さんに頂きました。画家になりたいという一心で、ここ何年かはひたすら絵を描いてきましたけど、絵を描く事が単純に好きだって気持ちを忘れかけていました……多分、私、画家になれなかったとしても、ずっと絵を描くこと止められないと思います。たとえ次に来た時にルミエールに環さんがいなかったとしても、私、ここでの事ずっと忘れません」


 彼女は一切、視線を反らさず真っすぐに私を見つめる。

 初めて会った時の彼女は、どこか弱々しかったけれど、今はこんなにも力強い。

 私は涙を必死に拭い、彼女の思いに応えるように真っすぐ彼女を見つめ返す。


「遠藤様、そろそろ新幹線の時間が……」


 片桐さんがそっと私の背中を叩きながら、彼女に告げる。

 彼女は腕時計に目をやると、脇に置いた重そうな旅行鞄を以前とは違い、難なく肩に掛ける。


「――それでは、本当にこれで。お世話になりました」


「遠藤様、ルミエールにお越し頂き、誠にありがとうございました」


 私は精一杯の思いを込めて、頭を下げた。

 菫ちゃんは穏やかに微笑むと、駅に向かい背を向けて歩き始める。


 その時、片桐さんが今までに聞いたことのない位大きな声で


「またのお越しをお待ちしております!」


 と、深々と頭を下げた。

 私と叔母さんも慌てて一緒に頭を下げる。


 菫ちゃんはそんな私達の様子がおかしかったのか、振り返りながら笑顔で手を振る。

 私達も手を振り返すと、彼女は再び前を向いて歩き始めた。


 黒髪のロングヘアが柔らかく揺れる背中がどんどん遠ざかっていく……

 舞い降りる桜の花びらが彼女を導く。

 レッドカーペットとなって……



「さ、戻りましょうか」


 叔母さんが、いつもの声色で告げる。


「すみません。取り乱してしまいました」


 私は二人に謝ることしかできなかった。

 自分の不器用さに半ば呆れながら……


 叔母さんは『何も言わなくていい』という意味を込めてか、私の肩を強く抱き寄せた後にポンと軽く手で弾き、一人エントランスに歩いて行ってしまった。


 私が追いつくのを待ってくれていた片桐さんが


「翠川さんのコンシェルジュとしての今日の対応は、一般的に言えば良いとは言えないかもしれない。ただ、守れるか分からない約束をしたくない気持ちはよく分かるし、翠川さんは正直者だと思う」


 と、思いがけない言葉を掛けてくれた。

 私は微笑むだけで精一杯だった。


「僕は『ここでやって行く』、そう決めているから『またのお越しをお待ちしております』と迷いなく言えたんです。天職かなんて分かって仕事している人の方が少ないかもしれません。ふとした事がきっかけで巡り合う場合もあるかもしれませんよ」


 彼の言葉は心に響くと同時に、自分の不甲斐なさを痛感させられるものだった。


 菫ちゃんを人見知りで、どこか弱々し気で放っておけないと感じていたけれど、一番心許ないのは自分自身だった。


 自室に戻り、菫ちゃんから貰った絵をもう一度広げてみる。

 絵の中の私は、心の底から楽しんで仕事をしているようだった。


 ……強くなろう。別れが辛くても笑えるように。


 コンシェルジュ・デスクの電話が鳴り響く。

 駆けつけた私は息を整え、ジャケットの襟を正してから、口角を上げる。


 受話器の向こうのお客様に、今日も心を込めて……

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