9.ザッハトルテを味わいながら

 片桐さん特製ザッハトルテは、外側は少し固めの濃厚なチョコレートでコーティングされており、味わっていく内に中のあんずジャムの酸味とシャリっとした食感の結晶化されたチョコレートとの甘味が程よく合わさり、ソフトで甘すぎない生地も絶妙なバランスを保っていて、とても美味しい。

 今度は、濃厚な生クリームを添えて口に運ぶ。

 生クリームは糖分を抑えているのか、甘いケーキを程よく緩和して先程とはまた違う食感と味が楽しめる。


 二人がケーキを味わう様子を窺い、片桐さんがもう一度紅茶を勧める。


「今度は、ケーキを一口食べた後にウバを飲んでみてください」


 言われた通りに口に運ぶと


「……ほぉいしい!」


 二人一緒に思わず声が出る。

 紅茶だけで味わった時は渋みしか感じなかったのに、ザッハトルテを食べた後に紅茶を口に含むと、ケーキの甘さが紅茶の渋みと調和され、なんとも言えない後を引く美味しさとなった。


「環さん、私、今日まで生きてて良かったよ~」


「菫ちゃん、私のほっぺた、まだ付いてる? 落ちてない?」


 出会ったのが、つい一週間前位とは思えないほど、暫く二人でふざけ合っていた。

 そんな二人のはしゃぐ姿を片桐さんは目を細めながら、まるで保護者の様に見守っている。


「そろそろ……」


「あ、そうだった。時間だよね」


「……はい」


 彼女は急いで紅茶を飲み干すと、


「とっても美味しかったです。ご馳走様でした」


 満面の笑みで片桐さんにお礼を言う。

 その表情からは、如何に彼のスイーツが絶品で、食した者を幸福感で満たしたかが読みとれる。


「いえ、こちらこそ美味しそうに召し上がって頂いて嬉しかったです」


 片桐さんは彼女の持っていた重そうな旅行鞄を持ち、黙って先を歩く。

 私は彼女と少しでも長く話をしていたくて、沈黙を避けるように言葉を繋ぎエントランスへ向かう。



 エントランスには、お見送りに駆けつけた叔母さんがいた。

 ルミエール、最初のお客様を皆でお見送りする。


「皆さん、短い間でしたがお世話になりました」


 菫ちゃんは最後まで礼儀正しく深々と頭を下げた。


「こちらこそ、遠いところ当アパルトマンを選んで頂きありがとうございました。ご両親にも宜しくお伝えくださいね」


 叔母さんは珍しく、しんみりとした表情を浮かべてオーナーらしい挨拶をする。

 片桐さんは小さくラッピングした桜色のフィナンシェを彼女に手渡す。


「わぁ、綺麗な色!」


 彼女は泣いているのを隠すように、顔をくしゃくしゃにして笑う。

 私も泣いてしまいそうで何か言葉を掛けたいのに足が前へ出ない。


 ――私はコンシェルジュだ。笑顔でお見送りしなきゃ。


 すると、彼女の方から私に一歩近づく。


「環さん……私、ルミエールに、また来ます。今度は美大生になって」


「……はい」


「だから環さんも、その時までコンシェルジュでいてください。何年か先の事なんて約束できないって分かってるけど……私、また環さんとルミエールで逢いたいです」


 そう言うと彼女は、無理に作った笑顔のまま私に片手を差し出す。

 私はその手を両手で包むように握り返す。


「遠藤様。……私、はっきりとした目標もないまま就職して、失業して、この間まで『なんで自分がこんな目に』って、どこか周りのせいにしていました。ですが遠藤様とお会いして、自分の好きな事に真正面から取り組もうとする姿に、私が勇気を貰っていました。本音を言えば、まだコンシェルジュの仕事が向いているのかも全然分からないんです・・・・・・だから必ずここでお待ちしてますってお約束できません。ごめんなさい」


 私は嘘をつけなかった。

 こんな時は相手の望んでいるだろう答えを言うべきなのに。


「環ちゃん、なんでそんな事……」


 叔母さんの哀しむような、失望したような声が背中越しに聞こえた。

 口に出してしまってから、コンシェルジュにあるまじき発言だったと我に返る。


 ――最低だ、私。


 何も言えずに立ち尽くす私に、菫ちゃんが一枚の絵を差し出す。

 それは食堂でお客様をお迎えしている私と片桐さんの姿を、彼女がイマジネーションを働かせえがいてくれた物だった。

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