8.彼女に吹き始めた風

 翌朝8時。

 食堂に彼女が来たと片桐さんから内線電話が入った。

 私は用意しておいた地図のコピーを手に食堂へ向かう。

 食堂の扉を開けると、すでに片桐さんが彼女に朝食をサーブしている最中だった。

 驚かせないよう、そっと彼女の傍に寄り、なるべく自然に声を掛ける。


「遠藤様、おはようございます」


「あ、おはようございます」


 昨日とは打って変わり彼女の表情は自然で柔らかかった。

 片桐さんも私に合図するように、少しだけ会釈をする。


 今日の朝食は、濃厚なチーズがとろけるベーコンエッグトーストと苺を小松菜やナッツとバルサミコ酢であえた春を感じるサラダ、ドリンクは轢きたてのコーヒーもしくは紅茶が選べるようになっている。


 彼女は目を輝かせながら、それらを口に運ぶ。


「苺のサラダ初めて食べました。美味しいです!」


「ありがとうございます。よかったら簡単なのでレシピお教えしますよ」


 片桐さんは料理の事となると、本当に幸せそうな表情をする。

 彼女にも、こんな顔をするのかな……

 仕事中にも関わらず、そんな事を考えながら、穏やかな自然光のスポットライトに、ほんわりと照らされた彼女の楽しそうな朝食の風景を見守る。

 食事が終わり食器が片付けられると、地図のコピーをテーブルに広げる。


「遠藤様、昨日お話しした美術館の地図とその周辺の案内図になります」


「あ、ありがとうございます! 早速、これから行ってみようと思います。」


 彼女はそう言うと体に不釣り合いな大きなリュックを背負い、少女が本を胸の前で抱えるような可愛い仕草で地図の入った封筒を大切そうに持っている。


 エントランスまでお見送りして、ほっと一息つく。

 彼女に、いい風が吹き始めている気がして、私まで心地よかった。


 ――遠藤様がルミエールに滞在し一週間以上経った。


 遠藤様は今日の午前中に出発し新幹線で御自宅に帰られる予定だ。


 彼女は、すっかり私達と打ち解け、「菫ちゃん」、「環さん」と呼び合うようになっていた。

 食堂で片桐さんも交えて三人でお話ししながら、お茶を飲むことになった。

 片桐さんは今日の為にスペシャルなケーキを用意してくれていた。


「こちらはザッハトルテになります。紅茶はウバを選んでみました」


 恥ずかしながら『ウバ』は初めて飲む品種だ。

 紅茶は私たちの目の前でティーポットから片桐さんが注いでくれる。

 少しバラにも似た花の香りがし、真紅色の水面はキラキラと輝いて見える。

 この金色に輝くカップの内側にできる輪を「ゴールデンリング」と呼ぶらしい。

 一口、含んでみると独特の渋みとコクがある。


 私は思わず「渋っ!」と言いかけたが、つうな振りをして


「菫ちゃん、コクのある大人の味だね」


 と、横目で菫ちゃんの反応を探る。


「そ、そうですね」


 菫ちゃんもどうやら渋みを感じているらしく、顔が微かに引き攣っている。

 すると片桐さんが、少し悪戯気な表情で


「ちょっと渋かったですかね。どうぞ、今度はザッハトルテと一緒に味わってみてくださいね」


と、2人の顔を見比べながら、自分の分の紅茶の香りを存分に楽しんだ後、渋みさえ『味わい』と言わんばかりに安穏としている。

 私と菫ちゃんは渋みを堪えながらザッハトルテを一口、まずは生クリームなしで食してみる。












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