オープンまであと僅か……
それからは怒涛の三週間だった。
私と叔母さん、片桐さんで内装業者では手の届かない細かい箇所を修復したり、室内のインテリア用品を少し買い足したりした。
海外のインテリア雑誌などを見て触発されてしまい、どんどん理想が高くなってしまったのだ。
私は、洋画や海外ドラマが大好きで、叔母に動画を見せながら
「こんなインテリアも素敵ですね」「海外は原色みたいな明度の強すぎる色は使わないからね」といったような他愛もない話に花が咲き、脱線することもしばしばだった。
そんな時、メニューの試作をしたり、食器などのチェックをしているはずの片桐さんが、紅茶とスイーツを手に『休憩はいかがですか』と絶妙なタイミングで部屋にやって来る。
休憩を促しつつも、実は、きちんと女性陣が業務をこなしているかチェックしに来てくれていたのかもしれないけれど……
今日の紅茶は、アールグレイ。
柑橘系の爽やかさと深みのある香りが、温かな湯気と共に私の鼻孔をくすぐる。
白地に同色のレース模様が施された小皿にはスイーツが。
少し齧ってみると、しっとりとした口当たりと焦がしバターのいい匂い。
どこかで味わったことのある少し甘酸っぱい風味もする……
「んっ! これ美味しいですね!」
「こちらは、フランボワーズのフィナンシェです」
片桐さんは、まるでお客さんに接するかのように、丁寧に分かりやすく説明してくれる。
フランボワーズとは、バラ科のキイチゴ属の植物であり、細かい粒の果実に種が含まれている為、本来口当たりはあまり良くないそうだ。
その為、菓子やジャム、ジュース等に加工して食されることが多いという。
私は思わず姿勢を正し、講義を聴く学生さながらに傍にあるメモ用紙に書き留める。
「あ、だから、ほんのりピンク色だったんですね」
「片桐さん、さすがね~。これ、カフェで出したら人気が出そうね」
「そうですか。じゃあ、ちょっとまたお店に出せるよう改良してみます」
「私も絶対、人気になると思います。味は勿論、見た目も可愛いし幸せな気分になります」
「ありがとうございます。じゃあ、お二人も引き続き頑張ってください」
片桐さんはトレイを手に、さりげなく美しい所作でドアを閉め、部屋を出て行った。
「片桐さん、素敵よね。まだ若いのにあの落ち着きと語り口、それであんなお菓子出されちゃったら、若い女の子も、私みたいなおばさんも、うっとりしちゃう」
「片桐さん、確かに落ち着いていらっしゃいますよね。お幾つなんですか?」
「確か~、31歳だったかな」
「私と4歳しか違わない! あ~、なんだかショックです」
「あら、お付き合いするにはちょうどいいんじゃない」
「えっ!……そういう意味じゃなくて、私が子供っぽすぎるのかなって」
「そうね、最近の若い子は昔に比べたら子供ぽいとこあるかもしれないわね」
「・・・・・・」
「だけど、人それぞれでいいんじゃない。私から言わせれば、片桐さんも、環ちゃんも、一見違うかもしれないけど、実のところ大差ないんじゃないかなって思うわよ」
「そうでしょうか・・・・・・」
「大人っぽく見える人って、そうならざる負えなかった理由があるのかもしれないし」
叔母さんは、ポンと優しく私の肩を叩いて『仕事に戻りましょう』と私を促した。
――叔母さんの言うとおりだ。人と比べても仕方がない。今の自分にできることを精一杯やるだけ。
私はもう一度、入居者受け入れ準備の最終チェックに取り掛かった。
各部屋の準備も万全に整い、いよいよ明日が初めての入居者受け入れという晩、私はなかなか寝付けずにいた。
ちょっと食堂にでも行って、一休みしようかな……
ひょんなことから、このアパルトマンのコンシェルジュになってしまったけど、冷静に考える余裕もなく、ただ精一杯準備に励んできた。
派遣社員だった頃は、仕事に執着もなくただ淡々と業務をこなしてきただけ。
仕事が終われば、友達とたまにご飯を食べに行ったり映画を観て帰るくらい、土日は平日にできない家事を、ひと通りしてダラダラと過ごして終わり……
こんなに毎日が充実しているのは、久しぶりだ。
お気に入りのマグカップにお湯を注ぎに行こうと厨房へ向かうと、扉が開き、仕事を終えた様子の片桐さんが出てきた。
「…………」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」
連日の作業で片桐さんも少し疲れていることが表情から窺える。
……気まずい。何か喋らなきゃ。
「いよいよ明日からですね」
「そうですね」
「私、緊張してしまって。何か飲んで落ち着こうかなって」
「……それ、カフェイン入ってますけど、大丈夫ですか?」
私の持っていたティーパックを指さしながら、片桐さんが言う。
「あ、そうですよね。ジャスミンティーってカフェイン入ってましたね」
ジャスミンティーはウーロン茶や緑茶の茶葉を使用して作られるので、カフェインを含んでいるのだ。
「良かったら、少し待ってて貰えます?」
片桐さんはそう言うと、また厨房の奥へと戻っていった。
数分経ち、片桐さんがティーポット片手にやって来た。
そっとマグカップに注いでくれると、少しリンゴに似た優しい香りが、ふわっと広がる。
「カモミールティーなら、カフェインレスですし、リラックス効果もあるので、寝付けない時にもお勧めですよ。苦手でなければ、どうぞ」
「以前飲んだことがあると思うので、大丈夫です……とってもいい香り~。ありがとうございます」
「それは良かった」
頷いた彼の表情はいつも通りの穏やかなものだった。
「片桐さんは、緊張されたりしませんか?」
「……そうですね。緊張も多少ありますが、楽しみな気持ちの方が優ってるかな」
「凄い! 以前もどこかお店でシェフをされていたんですか」
「……ええ、まぁ」
彼が少し言い淀んだので、それ以上詮索することは止めておいた。
「緊張ってどうすれば直るでしょうか」
「うーん。『緊張しちゃ駄目だ』って思わない事でしょうか」
「え?」
「無理して、そう自分に言い聞かせようとすると、却って緊張してしまうんじゃないかな」
「……はい」
「僕は結構プレッシャーに弱い人間で、自分に何か課そうとすると気負ってしまって駄目なんです。だから、『最初から順調にいくなんてありえない』位の心持ちで……」
片桐さんの『プレッシャーに弱い発言』に驚いてしまった。
いつも冷静沈着でスマートな立ち振る舞いなのに――
「翠川さんも、コンシェルジュなんて初めてでしょう?僕だって、そんなに経験を積んできたわけじゃないですから」
「そうなんですか? でも片桐さん、堂々とされてるし……」
「堂々としているように見せているだけですよ。誰だって最初は素人って良く言うじゃないですか。慌てず一緒に頑張っていきましょう」
「……はいっ!」
静かな食堂に、コーチに指導を受ける運動部員のような、気合いの入り過ぎた声が反響する。
――プッ。
片桐さんは噴き出しそうになりながら、慌てて口元を押さえる。
彼のこんな自然体な姿を見るのは初めてだ。
……は、恥ずかしい。
「翠川さんて・・・・・・声大きいですよね」
「えっ。嘘っ!」
「……すごく接客向きだと思いますよ」
目を細めて微笑んでいる片桐さんが、ポケットからキャンディーを一つ、私の目の前に置いて去っていった。
包み紙のスマイルマークが可愛い、のど飴。
片桐さんらしからぬセレクトに思わず顔がほころぶ。
――たとえ何かでつまづいたとしても、片桐さんとなら上手く乗り越えていけそう。
明日は、いよいよアパルトマン第一号のお客様の入居日だ。
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