96章 ただ、恋をしただけ
フールル・ルルーフは己が屋敷のソファにゆったりとその身を預けていた。残念ながら眠りの気配は未だ遠い。
フールルの目の前には記者を名乗る女。
燃えるような赤い髪を高く結い上げ、目元に丸いガラスの板が二枚付いた不可思議な、否、あれは確か眼鏡というものだったか。貴族の男性くらいしか所持できない稀少な物であったと記憶していたが。スカートを穿かぬ貴族とは思えぬ女性が眼鏡を所持できる様になるとは。今回は眠っている間に、なかなか時代が飛んだらしい。
紅茶を捧げられたフールルに、にこやかに水を飲む女性。
フールルは強めにたしなめたのだが、黒い男が頑として女をもてなそうとはしなかった。女の方も直ぐにフールルの方をなだめ、この事態などすっかり織り込み済みの様子だ。
フールルの執事を自称する黒い男はいつも不服そうにしているが、フールルが来訪者を拒む事は1度たりともありはしない。
生がとても退屈なので。
「よく私の目覚めが分かったわね」
「分かりますよ。聖女様が目覚められると、お屋敷に天から神々しい光が降り注いで、枯れ果てていた庭園が直ぐに花盛りになりますもの」
「…………まさか。」
「嘘じゃありませんよ。本日は王国歴233年の10月20日。お庭をご覧下さい」
「いつも通りの庭だわ」
青々とした芝生が広がり、瑞々しい樹木の下、色とりどりの花が咲き乱れている。小鳥が高らかに歌い、蝶がゆったりと舞い横切っていく。美しく完璧に整えられた庭園。されどいかに美しかろうと、その庭しか見る事が出来ないのであれば飽きも来ようもの。フールルにとって特に見るべき所の無い、いつも通りの庭の姿だ。
フールルの様子に女はうなずき、テーブルに手の平サイズの、何やら絵の描かれた紙を乗せる。見知らぬ物を見せて貰うのは僅かながら心が躍る。紙より遠くにティーカップを置き、フールルは紙の傍に歩み寄る。
「これが先週のこちらの姿です」
「まあ、この絵? は私の庭にそっくりだわ。でもまるで冬のよう」
木々の背丈、庭石の形、池、小道、それらの配置はフールルの知るこの屋敷の庭と寸分違いない。だというのに、木々に葉無く、花枯れ草枯れ、池の水面も澱んで見えた。
「写真、というものです。その瞬間を写して紙に描いて保存する装置ですね」
「凄いものが出来たのねえ。でもこれが先週の姿なの?」
フールルは多分に困惑を込めて女を見つめる。
真っ赤なルージュの印象的な、されどそれ以上の磁力を持つ空色の瞳がフールルの質問に肯定を返した。
「はい。貴女の目覚めと共に庭に春が訪れました。聖女様の目覚めを天が祝福しているのでしょう」
「まあ、天は、祝福するでしょうけれど」
「流石聖女様。きっと魔王を封印するお力を都度与えられているのでしょうね」
「……そうかもしれないわね」
「あの、聖女様?」
愁いを帯びたフールルの表情に記者の女は戸惑う。
聖女と呼ばれるもフールルの反応は薄い。
まるで自分が呼ばれているとは思えないでいるかの様な反応だ。
もう何百年と、もしかしたら1000年近く、彼女は聖女と呼ばれているであろうに。
記者の女は疑問を口にしようとしたが、視界の端にスラリとした白刃が映る。
疑心と憎悪に満ちた漆黒の瞳が熱無く記者の女を見下ろしていた。
黒き男が冷然と告げる。
「刻限だ。疾く失せろ。然もなくば死ね」
同じ人間に相対しているとは思えぬ、酷薄に斬り捨てる響き。
凍り付いた表情、排除すべき虫を見るかの様な瞳。
されど記者の女は平然と笑む。
「消えるべきはお前の方よ、聖女様にこびり付く魔王の残り香。生存を許されるのは偏に聖女様の慈悲によるもの。勘違いしない事ね、お前如きが傍仕えで居られるのは、お前の浄化の為なのだから。その黒々しい姿、未だ邪悪を身に纏っているようね。いつまで聖女様の手を煩わせる気? さっさと浄化されなさい」
喉元に突き付けられた白刃を、纏う魔力で黒く腐食させながら記者の女は立ち上がり、フールルに対してだけにこやかに一礼すると颯爽と立ち去っていった。
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