食らわば皿まで
伊織千景
食らわば皿まで
恋は盲目と人は言う。大まかにはあっていると俺は思う。
地球上に存在するどのホモサピエンスの女性よりも自分の彼女が一番可愛いと思うのは、一人の彼女を持つ彼氏として当然の思考回路であり、義務であろう。たとえ彼女に欠点があったとしても、それを見なかったことに出来るか、それがむしろ魅力の一つとして見えてしまうものだ。俺もそうであるからこそ、その言葉を頭から否定することは出来ない。
しかし、しかしだ。今眼の前で起こっている状況は、盲目だった俺の眼を開眼させるには十分すぎるものだった。
「なにどしたの? そんな驚いた顔して」
彼女は、満面の笑みを浮かべる自慢の彼女は、まるでせんべいでも食べるかのように食器をかじっていた。割れたガラスの上で足踏みしたような音が、彼女の口の中から聞こえている。思考が一時停止するほどの想像を絶する光景だった。
「いやいやいやいやいやおかしいだろう!」
「何が?」
「何もかもだよ! なんで皿食べてんの! というか食べられんもんなの皿って!?」
「待ってよちょっと落ち着こうよ」
「この状況で落ち着いてたら逆に凄いだろ!」
そんなやりとりをしている間にも、彼女はバリバリと音を立てながら食器をかじっていた。もう既に食器の3分の1が失われていた。
「ほらあれがあるでしょ? 桜餅。あれの葉っぱって食べられるの知ってる?」
「まあ、知ってるけれど」
「じゃあなんで桜餅の葉っぱは良くて食器はダメなのよ!」
まさかの逆切れである。顔を真っ赤にして怒る彼女は大変可愛いが、手に持っている皿が俺を現実に引き戻させる。
「いや桜餅のアレは食用だから! 皿は食べ物の枠に入ってないから! 人が食べていいものじゃないから!」
「え、でもうちの家族は皆皿食べるよ?」
「凄いなお前の家族!」
衝撃の事実をつきつけられて、俺は彼女の家族に会うのが猛烈に怖くなった。「娘が欲しかったら母さんの料理を皿まで平らげてみろ!」とか言われるのだろうか。普通は比喩として使われるそんな台詞も、彼女の家庭なら文字通りの意味で使われていそうで怖い。
「そもそもなんで皿を食べる必要があるんだよ」
「鉄分が不足しがちな体なのよ」
「普通に別のもので補給しろよ! 例えばレバーとか、煮干しとか、ほうれん草とか、鉄分豊富な食材なんて山ほどあるだろ!」
彼女はびくっと体を揺らし、少し涙目になりながら口をすぼめた。少し言い過ぎたかもしれない。もしかしたら皿からじゃなければ摂取できない特別な鉄分なのかもしれないのだ。もしそうだったとしたら先入観から怒鳴ってしまったのはあやまるべきだろう。
「レバーも煮干しもほうれん草も嫌いなのよ」
「意外としょぼい理由だった! というか好き嫌い激しすぎだろっ!」
なんということだ。容姿性格共に完璧だと思っていた自分の彼女が、単に好き嫌いが激しいという理由だけで食器をバリバリ食う女の子だったとは。恋によって盲目だった俺の目も、すっかり視力がアフリカ人並に回復してしまうレベルに到達していた。しかし恋には障害がつきものだともいう。この程度の障害、乗り越えられなくて何が男だろうか。改めて彼女の方を向きなおす。もう食器は原型を残していなかった。
「とにかく、もう食器を食べるのはやめにしてくれないか」
「そればっかりは無理だねー子供の頃からの習慣だから」
悪びれもしないで彼女は食器の最後のかけらを口に放り込んだ。なるほど確かに食べ慣れている感じだ。そう簡単に変えられる習慣でもないのだろう。
「食器は美味しかったか?」
「うん! 今まで食べた中で一番美味しいお皿だったかも!」
こちらがとろけてしまいそうな甘い笑顔で彼女は頷く。反省もしていないらしい。
「そりゃあそうだろうな。そういえば今お前が食べたその皿な、柿右衛門っていうんだよ」
「カキエモン? なんかかわいい名前だねー」
「今食べた柿右衛門な、二十五万するんだよ」
彼女の顔から笑顔が消え失せた。静かな沈黙が流れ、彼女の顔から血の気が失せる。
「美味しかっただろうなぁ。俺の爺ちゃんの形見」
「もう皿食べるのやめます」
食らわば皿まで 伊織千景 @iorichikage
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