昼間の太陽の記憶が

 ばちん。




 不意に、空気を殴るような音がした。部屋が暗くなる。


 どうやらブレーカーが落ちたようだった。


「ひっ」


 クッションを抱えたまま、男が小さく悲鳴を上げた。その手から取り落とされたリモコンが、床の上でごとりと跳ねた。


「ちょ、ちょっとブレーカーを見てくるからさ……。頼むからチロ、急に吠えたりしないでくれよ」


 スマートフォンの画面の明かりを懐中電灯代わりにして、男は立ち上がると、この部屋から出て行く。




——このまま匂いが

   凝固して

    実体を持ってしまったら。



 

 娘よ、だれよりも愛しい娘よ。帰ってきてはいけない。


 誰もいないはずの空間、かたちのないはずの、でもかたちを持ちつつあるその不穏な匂いに、私はひたすら目と鼻を凝らす。モノクロの視界に映るものはいつも通りの、娘と築き上げてきた愛しい部屋の風景でしかないはずなのに、この違和感はもう消し去りようがない。




 ああ、そしてなぜ、私の耳は、鼻と同じく敏感なのだろう。


 あの、外からかすかに聞こえる足音は、ちょっとだけ跳ねるような楽しげなリズムを刻む足音は、そして次第にこちらに近づきつつあるあの足音は、


 間違いない。娘のものだ。


 駄目だ。駄目だ。


 ここに来るな。来てはいけない。


 誰か。誰か娘を。




 不意に私の首筋に触れたものがある。




 パッと灯りがついた。男がブレーカーを探し当てたのか。


 部屋に戻ってきた男が、私を見て立ち竦む。


 いや、正確には私のすぐ横だ。


「な、んで……」


 今朝、娘が丁寧にブラッシングしてくれたこの全身が総毛立つ。


 モノクロの世界にひときわ黒く沈む気配が、その存在感を一気に増していく。


 娘の幸せを願った昼間の太陽の記憶が、跡形もなく塗り潰されていくのがわかる。


 帰ってくるな、娘! 逃げろ!


 叫ぼうとする声も、その匂いに飲み込まれた。


 動けない。


 今、私の隣には、何かがいる。



〈了〉

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お日様の匂いの隣 梶マユカ @ankotsubaki

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