もし、たったひとりもいなければ
いかん。
これではまるで、私がこれから逃げ場のない水鳥の毛を、必要もないのに無理やり毟らんとするサイコパスか、ひたすら主人公を脅かし追い詰めるホラー映画の化け物のようではないか。
ああそう、ホラー映画といえば、娘は怖がりのくせにその手のものをよく見たがる。
そういうとき娘はいつも、カーテンを閉めたこの部屋の中、ラグに寝そべる私の横でからだを小さく丸め、お腹にクッションを抱え、薄く目を開けたと思ったら、恐ろしげな効果音が鳴り響くのと同時にぱっと目を伏せて私に抱きつく。そのお腹にクッションを抱える記憶の中の娘の姿は、今の目の前の男に、とてもよく似ていた。
たしかに、目の前の者は歳が若い。若輩者、というやつだ。でもそれは、娘と同じ年頃の子供でもある、ということだ。娘をだれよりも愛した彼女の両親、そして今誰よりも彼女を愛おしく思っているこの私と同じような存在が、この男にもきっといるかいたかしたはずなのだ。もし、たったのひとりもそういう存在がいなければ、そもそも生き物は、これほど大きくなるまで生き抜くことなどできないのだから。
いかんいかん、年長者が年少者の前で持っていてもまあ格好がつくのは、威厳と優しさと多少の恰幅くらいであろう。さすがにこの小芝居は悪趣味が過ぎたかと反省して、唸り声を止めた。
——そのとき。
男の怯えた体臭に巻きつくように。
ふいにまったく「違う」匂いが、この部屋になだれ込んできた。
しゅるしゅる。
しゅるしゅるしゅる、
とそれは、男の周りを上からも下からも螺旋を描くようにして、どんどんとその濃度を増していく。私はぎょっとした。
なんだ、これは。
「なあ、おい、チロ、チロさん。俺、まじでソレ系苦手なんだよー。やめてくれよー……」
膝の上のダウンコートの上に、ソファに置かれた娘お気に入りのクッションをさらに胸元に抱え込むようにして、情けない声で男が懇願している。
そのクッションも、ソファも、私の寝そべるラグにも、周りの白い壁一面にも、その匂いのツタはしゅるしゅると伸びて。伸び続けて。
私は思わず立ち上がる。
そのツタの先が、ラグを通して私の足の先に近づいてきたのを、振り払う。長い毛並みが一気に逆立った。
「え、どうしたんだ。ノミでもいたのかな……」
そんなトンチキなつぶやきに、「こいつは、こんな匂いに巻きつかれて平気なのか?」と男を見るも、奴は「怖いからなんかテレビでもつけるか」とリモコンを呑気にいじりはじめた。この異変に気づいているのは、私だけなのだろうか。
ますます匂いは濃くなっていく。
公園で濡れた砂場を掘り返した時に感じるような、人の手垢にまみれた湿った土の匂いに、それはよく似ていた。あるいは、打ち上げられた魚や割れた貝の中身が腐って散らばる浜辺のような。
空気が雨に変わるように、気体から液体に近づいていくように、匂いの粘度と温度が上がる。気持ちが悪い。このままだと、もうじきこの匂いは、
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