湿った水鳥
そして今、私はもうどん底まで不機嫌である。
目の前のテーブルには、ほこほこと白き湯気を立てる土鍋、そして鍋の向こうにはゴムボールの匂いのする男が座っている。そして娘の姿はない。
何故、このいけ好かない男とふたりでこの部屋に取り残されているのかといえば、娘が「薬味」なるものを買い忘れたからである。そのため、私たちはいわゆる「お留守番」をさせられているわけである。
床に敷かれたお気に入りのラグの上で不貞寝をしながら、私は男を横目で見る。
落ち着かないそぶりだ。
我々の種族との関わりに、あまり慣れていないのだろう。
吠え付くな、と娘から言い含められていることもあるが、何故にこのような輩に私の美声を自ら披露してやらねばならぬのだ。ふん。
数分前の、娘とこの男のやりとりを思い返して、私は憮然とする。
『これがチロだよー』
『え、あ、えっ、でかっ』
この男が部屋に入ってきた瞬間、今と同じようにラグで寝そべる私を見て、一歩後ずさったのを私は見逃さなかった。
『こんなに大きい犬だとは思わなかった……』
『えー、何度も写真見せたじゃない』
『いや、そうだけどさ……』
どうせおまえは、私と一緒に写る娘の姿しか見ていなかったのだろう、その気持ちはわかるがな、私の隣にいるときの娘は、本当に可愛い笑顔を見せてくれるからな。その笑顔に釘付けになってしまって、そのほかのものは一切目に入らなくなるのも、さもありなんと言ったところだ。とはいえ。
『おれ、これまで動物って飼ったことなくってさ。こんなでかくて怖くないの?』
『怖くないよー。チロは凄く優しいもん。気は優しくて力持ちってやつそのものなんだから。ねー、チロ?』
そうだろうそうだろう、と私は娘に同意を示すべく、軽く尻尾を振ってみせる。
『あ、怖いって言えばさ』
愛しい娘は私の背中の毛を軽く撫でながら続けた。
『猫ってさ、何もいないところを見ていることがあるじゃない? あれって猫の視線の先には、人には見えない何かが本当にいるって言うけど、ほんとかな。本当だとしたら、そっちの方がよっぽど怖くない?』
回想終わり。
そうだ。
私はふと顔を上げる。
娘が薬味を抱えて帰ってくるまで、後十分もかからないだろう。
ちょっと、からかってやろう。
それに、怯えた時にこそ、その人間の本性があきらかになるのだと、娘と一緒に見たドラマでも言っていた。
見定めてやる。
じー。
私はわざとらしく目を見開き、天井よりも少し下あたりの「何もない空間」を見つめる。
うー、と軽く唸ってみる。
空気が微妙に動いた。
どうやら、男が私の様子が変わったことに気づいたらしい。
ゴムボールの匂いに、焼けたタイヤのような匂いが混じる。
動物は怯えると体臭が変化する。それは人間とて例外ではない。
「え……、何見てんの……?」
私の思惑通り、彼奴は先程の娘との会話を思い出したらしい。
おうおう、順調に怯えるがいい。そして、娘が帰ってくるまでに、本当にお前さんが大切な私の一人娘を託すのに足る男かどうか見定めてやる。
うー、ぐるるるるるる……。
しまった、だんだんこの小芝居が楽しくなってきた。
こういうのを人間の言葉では「人が悪い」というのだろうが、私は犬だ。お犬様だ。お生憎様。
「何かそこにいるとかないよなあ……」
不安そうに、男が周りを見渡す。匂いだけでなく顔色まで煤けたような古タイヤ色になってきている。ふはははは。怯えろ怯えろ。
「やべえ、どうしよう、まじで怖いんだけど……」
無意識だろうか、男は自分の傍に丸めて置いたダウンコートを、正座した膝の上に手繰り寄せている。
その膝と胸元からかすかにたちのぼる、湿った水鳥の怯えた匂いに、私はふと我に返った。
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