何しろ、もふもふのふかふか

 行きつけのスーパーマーケットの前で、手すりに繋がれた私は、娘が買い物を終えるのを待っている。


 わー、まっしろなわんちゃんだー、という声が聞こえる。


 私は、子供には本当に人気があるのだ。


 何しろ、もふもふだ。もふもふのふかふかだ。


 いや、この「もふもふ」やら「ふかふか」やらという言葉の正確な意味は、イマイチよくわからないが、人が私に触れる時、必ずと言っていいほどその言葉を発するので、それらはきっと、私のこの素晴らしくゴージャスかつファビュラスな毛並みを賞賛する言葉なのだろうと、とりあえずは理解している。


 コンクリートに触れる足の裏が、いつもより少し熱く感じる。


 空を見上げれば、モノクロの世界に一際白く輝く丸いものがある。


 太陽、と呼ばれるその白い丸を、私の娘は殊の外愛している。


『だって、お日様の匂いっていい匂いだもの』


物干しにかけたふとんに鼻を埋めて、くんくんと匂いを嗅ぐ幼い頃の娘の姿を思い出す。


 それはなんだか、私たちの種族の幼いものがよくやる行動にも似ていて、やはり親子というのは似るものであるのだと、心密かに思ったものだ。


 お天道様が見ている、というフレーズが、人間界にはあると聞く。


 そのお天道様を見る私は思う。


 どうか、その天高きその場所から見ていて欲しい。だれよりも大切な娘を。そしてその娘を見守る私を。


 もちろん、私が娘を守る者として気力、知力、体力すべてがふさわしくなくなったなら、そのときは、いさぎよく後進に道を譲るつもりだ。だが、今はまだ、しばしの猶予が欲しい。


 足元のアスファルトのちいさな隙間から、同じようにちいさく、それでいて妙に生暖かい空気がじわりとあたりに滲み出している。今日は暦の上ではとうに冬であるはずの十二月にしては、ずいぶんと気温が高い。この時期の制服のようなダウンコートの前を開けて、その中に風を入れながら歩く買い物客たちが通り過ぎるたび、あたためられた羽根から放出される熱、その熱の周りにまとわりつく汗の匂いを感じる。


 同じ羽根の暖まった匂いでも、干した羽布団の匂いとはずいぶんと趣が違うものだなと思う。まあでも、こちらのほうが本来の羽根の状態には近いのかもしれない。生きた水鳥たちの、まだ毟られる前のそれは、きっと汗や彼らが浮かぶ湖の水分との方が、すべてを乾かす太陽の光よりも馴染みが深いであろうから。


 お日様の匂い。


 あれは実は、ふとんに生息するダニの死骸の匂いだという話題を、以前なにかの動画で見た娘が、えらくショックを受けていたことも思い出す。「ダニなんだって……」と呟きながら、私専用のクッション、その日干したばかりのそれを、「もう一回よく叩いてくるね」と寝そべる私の下から引っ張り出して、ベランダへと運ぶ背中は、私が思わず噴き出してしまうほどしょんぼりしていて、そして、とても愛くるしかった。


 ああ、なんだかやはり今日はとてもセンチメンタルだ。しかし。


「お待たせ、チロ」


 スーパーから足取りも軽く出てきた娘が持つ買い物袋の中から、どう考えてもいつもより高級そうな肉の匂いがして、そんなセンチメンタルさは一瞬にして吹き飛ぶ。


 まだ見ぬ男に腹が立つ。


 そう、その男、私はまだ姿を見てはいない。見てはいないが。


 匂いは知っている。


 例えるならば、なんとなく、空気の抜けた古いゴムボールのような、擦り切れたタイヤのような。


 一言で言えばとても微妙、そんな匂いだ。


 我が娘の人の見る目を疑いたくはないが、幼き者の見間違い、心得違いをフォローしてやるのも年長者の役目、というものだろう。私は人間の年齢に換算するなら、ちょうど四十三、四歳、といったところだ。フォロー役を請け負うのもやぶさかではない。かつて路傍に捨てられていた私を拾ってくれた、命の恩人である天国の彼女から託された大切な宝物。彼女の死んだあの日から、私はその幼子を己の娘として、一番近くで見守ってきたという自負がある。その娘に道を踏み外させることなど、あってはならないのだ。だから。


 ふん。来るなら来るがいい、タイヤ野郎。


 鼻息も荒く、私は一度全身を強く震わせた。武者震い、というやつだ。


「あっ、ごめんねチロ。もしかして待っている間、寒かった?」


 そんな勘違いからのいたわりの言葉も、傍らに荷物を置いて私をぎゅっと抱きしめ、「もふもふ」の毛並みごと、この体を擦ってあたためようとする仕草も。すべからく愛らしくいとおしい。


「急いで帰ろうね。今日はね、お鍋だよ。チロにもご馳走あるからね」


 私のハーネスを握って立ち上がり、上機嫌で歩き始めた娘の体からは、水面より飛び立つ前の水鳥の香りがした。

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