死にたい死にたくない人

水村ヨクト

死にたい死にたくない人

 そう、これは夜の話だ。この間の。そうだ、確か、一週間とちょっと前。


 警察官である私は、深夜のパトロール中だった。夜も更けてもう署に帰ろうかと思っていたとき、私は自殺を図ろうとする一人の男性を見かけた。いや、結果的にそうだっただけで、そのときはそうは見えなかった。彼は、この街で一番広い川に架かる、この街で一番高い橋の柵の前で、何やら不審な行動をしていた。




「きみ、そこで何をしてるんだい?」




 私はパトロール用の自転車から降り、男性の斜め後ろから、そう声を掛けた。


 振り向いた彼は、二十代前半くらいの見た目をしていた。




「…………死のうと」




 たっぷりと間を開けたあと、暗い声で、彼はそう言った。


 私は驚いた。まさかパトロール中に自殺志願者に遭遇するなんて。




「……何でまた。何か嫌なことでもあったのかい?」




「まぁ、そんなとこです。……でも何て言うんですかね。死にたいんですけど……死ぬのが怖いんですよね」




 彼は言う。淡々と、しかし確かに自殺志願者らしい声色であった。




「じゃあ死にたくないんじゃないのか」




 私は安堵して言った。しかしそれも束の間、彼はこう続けた。




「いえ、死にたいんです。楽になりたいんです。でも、私がなりたいのは、で、は怖いし嫌なんです」




 一瞬、わけが分からなかった。彼が何を言いたいのか。どうしてそんなことを言うのか。




「なんというか……そうですね。風呂に入ったあとの状態になりたいだけで、風呂に入るのは面倒くさい、みたいな。そんな感じでしょうか」




 ……はぁ。


 私は黙って彼の言うことを聞いた。




「死ぬ行為がしたいんじゃないんです。飛び降りるのは怖いし、自分を自分で傷つけるのも……。薬物とかは調達が面倒臭いじゃないですか。致死量とか分からないし……」




 奇妙な。しかし、言いたいことは概ね解ってきた。




「とにかく、死んだあとの状態になりたいだけなんです。楽に。でもそのために怖い思いとか、痛い思いはしたくない。どうすればいいんですかね?」




 私は問われた。


 どう答えるのが正解なのだろうか。どうすれば彼を死なせずに済むだろうか。


 何が正解なのか……。


 ……いや、簡単なことではないか。


 「死にたい」なんて、誰だって言う言葉だ。ちょっと辛ければすぐに言う。何となく、便利な言葉として。


 それでも本当に死なない理由は。




「それはつまり、きみの人生の痛みは、死ぬときの痛みに比べたら大したことじゃないっとことだろう。だから、今は無理に死ななくていいんじゃないか」




 そういうことだ。


 人生の辛さが、死の辛さを超えたとき、初めて人は本当に死ぬのだ。


 彼は、自分の、「中身のない死にたい」に素直過ぎただけなのだ。




「そっか。そういうことか。たしかに、死ぬのが怖くなくなるほど人生が辛いときは死ねますよね。そのとき死ねばいいや」




 彼はそう言い残し、橋から去って行った。


 私は、その後ろ姿を、彼の姿が見えなくなるまで見送った。


 署に戻る私の自転車は、いつもよりスピードが速かった気がした。

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