第2夜 親切と「神接」という造語

 皆様ごきげんよう。

 陽雨ひさめである。


 今日は私のデスクからお届け。

 ん?それは何だって?

 目ざといですね皆さん。これは今日の肴であります。


 今日の肴は串カツ。お酒ですがちょっと悩んだんだけど、明日は仕事ということで、チョコレートリキュールというものを用意。


 先ほど、ランダムテーマ短編小説集に「A New Translation ~ある戦士たちの回顧~」なる小説を投稿し、今日はその夜会であります。



 んくっくっくっ。ぷはー。


 チョコレートリキュールは初めて飲むのだが、これはおいしい!

 

 まずパッケージ。買ってきたのは「サントリー モーツァルト チョコレートクリーム」。

 金色の、ガムの包み紙みたいな手触りの包装紙にくるまれた丸っこいデザインのボトルは、まるでゴディバの高級チョコレートを連想させる見た目だ。

 地元の酒屋で買ったそれは、店頭の棚に並んでいて、小ぶりながらしかし、確かな存在感を感じさせた。


 遠目で見て、「あっ、このお酒甘いのかな?」と思い近づき、「チョコレートクリーム」という文字を見て、甘いことを確信する。

 特にモーツァルトという名前が良い。


 モーツァルトと言えば、「フィガロの結婚 序曲」、あるいは「トルコ行進曲」、「クラリネット協奏曲」などが代表作として上がる有名作曲家だ。


 それらを見て私が必ず思い出すのが、漫画「のだめカンタービレ」の中で、主人公たちが「オーボエ協奏曲 ハ長調」を演奏しようとする一幕。


 主人公、野田恵がモーツァルトを聞き、「お花畑」と例えていた。花びら舞うその様子はまさに言いえて妙で、モーツァルトの作品にはそういった玉のような音、甘く誘われる優雅な曲調、曲を聞いているだけでフランスのヴェルサイユ宮殿の大広間にいるかのような気持ちにさせられるモノがある。(もちろんそれ以外の曲調のものも数多くある)


 だからこそ、私はそのパッケージを見て、優雅な風情の中世ヨーロッパ宮殿。これを真っ先に思い浮かべた。そして何やら甘そうとパッケージから伝わるメッセージ性。


 サントリーさすがである。


 果たして手に取ってみれば、これはチョコレートリキュールだと言う。最初は、カルアミルクみたいなものかと思い、さくっと購入を決めたのだが、いやはやそれが大いなる思い違いであると思い知らされた。


 まずこのチョコレートリキュール。

 コップに流し込んでみると、どろどろとかなりの粘性がある茶色の液体である。

 そのまま溶かしたチョコレートだった。

 で、これに牛乳を加える。分量としては、チョコレート30mlに対し、牛乳が90mlくらいだという。この分量。どろどろのチョコレートリキュールにしては、なかなか多めに見える分量だ。

 粘性が高い故、流しても流しても30mlになかなか到達しない。

 びくびくする気持ちをこらえ、大胆に器に流し込む。


 そうしてこれを電子レンジで温めるのだ!!


 繰り返す、電子レンジで温めるのだ!!


 そうしてできた、モーツァルトショコラミルクというカクテルの見た目、ホットミルクティーのような見栄えの、乳白で薄茶色の液体が出来上がる。


 一口含んでみる。


 すると牛乳とチョコレートの豊かなハーモニー。あれ?これココアじゃないの?


 しかし直後に訪れる口いっぱいの甘さに、これがチョコレートだと自覚する。


 そして飲み干して鼻に通るアルコール風味。これがチョコレートリキュールという飲み物なのだ。


 あー!カヌレが欲しい!マドレーヌでもいい!


 若干、右手においてある串カツという、肴のチョイスを間違った感が否めない。

 しかし、しかしだ!

 恥じることはない。


 まず最初に手に取ったのは、豚ももの串カツ。使うソースは、もちろんウスターソース中濃だ。これにまんべんなく付けて、口に頬張る!


 先ほどまで甘ったるい味に支配されていた口の中が、ソースの酸っぱい味で一気に上書きされる。

 特に、甘いものを飲んでいたからか、ソースと豚肉のうまみが引き立つ!


 合うじゃないかこの組み合わせ。

 噛むごとにウスターソースの酸味とうまみが鼻を通り、肉から肉汁が噴出しているのがわかる。

 そこでチョコレートカクテルをもう一度口に含んでみる。

 全然味が違う。


 さっきはチョコレートのカカオ感がすごかった。しかし串カツを食べた今、口の中に広がるのは、ミルクのコク。モーツァルトショコラミルクというカクテルは、チョコレートリキュールだけが主役ではないのだと自覚する。


 踊る大捜査線。いかりや長介が扮した和久平八郎。彼がいてこその、踊る大走査線、青島俊作刑事なのだ。

 いや、わかりにくいか。


 そんな滑らかになった舌で、今日の夜会のメインテーマを話したい。



 さて、今回の短編小説で、「親切」という言葉をテーマに、「A New Translation ~ある戦士たちの回顧~」小説を掲載した。

 まだ読んでいない皆様には、ぜひとも一読いただきたいと懇願する。


 そもそもなぜ親切というテーマを選んだかというと、これはランダムテーマを書き出してくれるサイトで選ばれたテーマだったため、この選出理由に深い作意は無い。


 どちらかというと、内容について私はここに語っておきたいと思っている。


 まずこの小説を書くにあたり、「親切」という言葉をよくよく回顧するに至った。


 そもそも「親切」という言葉自体、不思議な言葉だ。

 「親を切る」と書くのだ、この言葉は。


 手元の国語辞典で調べてみると、意味はこんな風に書かれていた。



しんせつ【親切】

弱い立場にある人や困った目にあっている人の身になって、何かをしてやったりやさしく応対したりすること(様子)。またその態度。

(三省堂 新明解国語辞典 第六版)



 大体私たちがよく言われる親切という言葉の定義に合う説明だと思われた。

 だが、何故、親を切ると書くのだろうか。


 そう考えると、そもそも親、という字と、切、という字からして不可思議さを感じざるを得ない。だって、親は、「木に立って見る」だよ?猿じゃないそれじゃあ。


 そこで取り出したるは、大修館 漢語新辞典。そこに語源が無いだろうか。


 親、という項目を探すと解字に面白いことが書かれていた。


 親は形声文字。亲(シン)+見が合わさった漢字なのだそうだ。

 亲(シン)という言葉には、そもそも「すすみいたる」という意味があるんだそうだ。辛と木という字を組み合わせた合わせ字であるとのこと。

 つまり、親、という字は「すすんで、見る」ということを示していて、転じて「親しい」という意味になったんだそうだ。

 ところで、この亲(シン)、字のイメージとしてはやっぱり、「木が立っている」というイメージらしい。これに斧を以て道を切り開くことを、「新」というんだとか。


 そうすると次に調べるのは「切」という字だ。

 漢語新辞典には、まず意味としてこのように出ている。


【切】

㈠①きる ②さく ③みがく。こする ④さしせまる。あわただしい ⑤程度の深刻さをあらわす ⑥かえし。きり。

㈡①すべて ②みぎり。その時


 併せて解字も見てみよう。


『形声。刀+七。七は縦横に切りつけるさまを示す。七がななつの意味を持つようになって、刀を加えて区別した。』


 なぬ。もとは、切るという文字はなく、七という字が「きる」という意味だったということだそうだ。そもそもそれがびっくりだが、こうしてみると「切」にはやっぱり、切るという意味しかないようにも見える。


 そう考えれば「親切」という字は、やっぱり「親しく、切る」の意味になってしまう。言葉の意味を考えれば、「親接」が正しいのではないか。


 そんなことを考えていると、日本放送のサイトにこんなページがあった。

(「親切」はどうして“親を切る”と書くの? – ニッポン放送 NEWS ONLINE_https://news.1242.com/article/176150)

 

 そこにかくありき。


『“親しい、身近に接する”という意味です。『親切』の“切”は、“心から”、“ひたすら強く”といった意味があります。“切に願う”といったように使いますよネ。そんなところから『親切』という漢字には、“より親しい”という思いが込められています』


 つまり、親切というのは「心から親しくする思い」を示した言葉を指すというのだ。


 ところで、親切という言葉は「深切」という言葉がそもそもの言葉らしい。

 つまり、「心の底から深く入り込むこと」から転じて親切になったという解説も散見された。


 するとどうだろう。親切という言葉は、「相手のこと、立場を深く考えたうえで、相手の気持ちになって手助け、行動をする」ということになりはしないだろうか。


 ある哲学論文では、「親切は、困ったり求めを持つ他人に対して、たまたまその場に居合わす人が、ささやかな手助けをすること」としているものがある。


 なるほど一方でそういう面もあるのかもしれないが、本当の親切とは、相手のことを深く考えたうえで実行し、ニーズとウォンツがしっかりとかみ合った、なかなか重量があるものなのではないだろうか。私はそう思ったのだ。


 と考えたときに、いわゆる「親切風の行動」というものもあるよな、と思い至った。

 一昔前にCMで「あなたのためだから」と言いながら、ダイエットをしている人のケーキを食べるというものがあった。


 そう言ったものは親切ではないということになる。

 いわゆる、ニーズとウォンツがかみ合わない行動。


 そういう行動というのは、得てして施した側が自己満足に陥ることが多い。

 それはまるで、神様からの施しのようで。

 そして施された側は、それを別の意味で捉え、ここに理解の二面性が現れるのではないか。


 つまりは、「神接しんせつ」と呼べるような、実は一切目をその相手に向けていない行為。

 そういったコントラストを描きたいと思い、新説(A New Translation)というタイトルを付けた。そういえば、親切と新説も掛かってるね。


 英語題名にしたのにもちゃんと理由がある。ほら頭文字を取ると…。




 私も日常生活において、神接でなく、親切となるような行動を心掛けたいと心の底から願う。


 願わくば、だれか親切でこの空になったコップにチョコレートリキュールを入れてきてくれまいか。


 それこそ儚い願いであろうが。

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