第3話 手竿と魔法竿

   

 ルーセル湖は、水の透明度が高い湖です。魚たちの泳ぐ姿が、湖岸からよく見えるくらいです。

「ふふふ……」

 水面に視線を向けるだけで、幸せの声が口からこぼれました。

 これがハイキングやピクニックであれば、釣り上げずとも魚を眺めることが出来るのは、最高の環境ですからね。

 しかし、いざ釣りをしようとなると、そうも言っていられないのでした。


 私たち釣り人の間には「見えている魚は釣れない」という格言があります。「釣り人が魚をのぞく時、魚もまた釣り人をのぞいているのだ」という理屈です。

 釣りをしていると実感できるのですが、基本的に、強くて偉そうな魚たちはなるべく底の方を占領しています。一方、弱い小魚たちは、表層や中層を泳いでいます。目の位置の関係で、魚というものは、自分より下は見えないけれど上はよく見えるからだそうです。

 つまり、私たち人間が思っている以上に、魚には私たちの姿が見えやすい、という話になります。

 もちろん、視覚だけではありません。人間が水辺に近づけば、足音がします。振動が地面から水中に伝わって、これも私たちが思う以上に、よく聞こえるそうです。だから釣り人はなるべく動かず、ジーッと釣りをするのですが、それだけ注意していても、なぜか人間の気配は魚に察知されるのですよね。

 そうなると、釣り針にエサをつけて投げ入れても「これは自然のエサではない」と看破されて、もう食べてもらえません。

 こうした事情があるので、水がきれい過ぎる池や湖は、釣りをする上では一苦労なのでした。


 このような話をしてしまうと、「ならばルーセル湖は釣りには適さない場所ではないか」「何故ルーセル湖に通い続けるのか」と言われてしまうかもしれませんが……。

 ルーセル湖にはルーセル湖なりの良さがあるのです!

 まず第一に、精神的な問題です。

 釣りで重要なのは、釣果だけではありません。仕事ではなく趣味なのですから、気持ちよく釣ることが一番大切です。

 そうなると、やはり水質や景色の美しい場所の方が良いではありませんか。濁った池や沼の鬱蒼とした環境で一日頑張って、一匹も釣れなかったら惨めな気分になりそうですが、このルーセル湖のような場所ならば、たとえ釣果ゼロであっても「今日は釣りではなく、水辺で一人ハイキングだった!」と納得して、幸せな気分のまま帰宅できます。


 第二に、物質的な意味でも、水のきれいな釣り場には大きな利点がありました。

 私の場合、殿方がよくやるようなキャッチ・アンド・リリースではなく、釣った魚は食べるつもりだからです。

 そもそも、生息している魚の種類が違います。渓流やそれに匹敵するくらい水の澄んだ池や湖では、美味しい魚が釣れるのです。

 例えば、このルーセル湖で私が頻繁に釣っているのは、七耀マスセブンライト・トラウト。街の魚屋でもよく売られている食用魚であり、光り輝く美しい体色は、誰でも一度は目にしたことがあるでしょう。

 もちろん、少し汚れた池や湖の魚だって、調理次第では食べられます。例えば、このルーセル湖にも暗黒ダークバスや湖ナマズは生息していますし、私も釣ったことがあります。ただし、湖ナマズはまだしも、暗黒ダークバスの身には独特の臭みがあり、ニンニクや生姜などが調理に必須となるのです。味付けではなく、臭み消しだけのために。

 しかも、同じ暗黒ダークバスや湖ナマズであっても、もしも濁った水場から釣り上げたのであれば、さらに大変です。調理の前に一晩、井戸水の中で泳がせて、泥を吐かせなければなりません。

 魚を調理するのは、私ではなく妹のシルヴィなのです。なるべく彼女に手間をかけさせたくない、と私は思うのでした。


――――――――――――


「よし! 今日も誰もいないわ!」

 目的の釣りスポットに到着した私は、心の中でガッツポーズをしました。

 私が勝手に『天然椅子の岩』と呼んでいるポイントです。

 湖岸まで低木の茂みが続いており、姿を隠すには、もってこいの場所です。ちょうど茂みの切れ目に、椅子の形をした岩があり、そこに座って竿を出せば湖に届く状態でした。『低木』というのも大切な点の一つであり、周りに高い木がないので、竿を振っても頭上で釣り糸が引っ掛かる心配はありません。

 ……というのは岸側の状態であり、釣りなので水中の条件も重要になってきます。

 この辺りは、一部が遠浅になっているのでしょう。湖底の土や砂が波で揺り動かされるらしく、他よりは少しだけ水が濁っているのでした。最初に述べた「水がきれい過ぎると魚を釣りにくい」という問題をクリアーする形ですね。

 ただし『遠浅』といっても、本当にかなり先まで浅い状態が続くわけではありません。私の竿が届く範囲内で、ガクンと深くなっているようです。このような水底の段差は、釣り人の間では『カケアガリ』と呼ばれて好まれています。魚が居付く場所だと信じられているのです。

 普通、あまり浅い場所には大きな魚もいませんからね。釣りの醍醐味は生きた魚とのやり取り、いわゆる『ヒキ』と呼ばれる手応えですから、大きければ大きいほど良いわけです。


 このように『天然椅子の岩』は、最高の好ポイントなのですが……。

 ここルーセル湖は、お母様が勝手にそう呼んでいるだけで、実際には我が家の領地でも何でもなく、私が独占できる湖ではありません。私にとって絶好のスポットは、他の釣り人にとっても好ポイント。先に誰かが入っていれば、もう私は使えません。

 だからこそ、先ほどの「よし!」という声になるのでした。


 荷物を全て下ろして、釣りの準備を始めます。

 まず、竿ケースから大切な釣り竿を取り出します。

 釣り竿には大きく分けて二種類ありますが、私が使うのは魔法竿ではなく、手竿と呼ばれるタイプです。

 魔法竿の方は、あらかじめ竿の先端に道糸ラインがセットされており、魔力を流し込むことで、その道糸ラインがグングン伸びる仕組み。キャストのタイミングに上手く合わせて魔力を流せば、遠投も可能です。貴族の子息たちが好むルアー・フィッシングに用いられるのが、この魔法竿なのです。

 一方、私が愛用する手竿には、そのようなギミックはありません。運搬時には竿の長さを短くしているので、釣りを始める際には、筒状に重なっているものをスライドさせて、何倍もの長さに伸ばすわけですが、そこにも魔力は用いません。

 私の釣りは、魔力抜きで、純粋に魚と勝負するのです! 殿方のルアー・フィッシングでは『擬態ミミック』の魔法を使う者すらいると聞きますが、それは邪道です! だって、魚の方では魔法を使えないのですから!

 ……魔法竿のことを考えると、ついルアー・フィッシングを思い浮かべて興奮してしまいました。とりあえず、忘れましょう。せっかく「のんびり釣りをしよう」と気分転換に来ているのですから、ここで腹を立てたりするのは馬鹿みたいです。

 そう、大切なのは「のんびり」の精神。『魚と勝負』などとカッコつけた言い方をしてしまいましたが、私は案外、何も釣れなくても構わないと思っています。どうやら私は、ただボーッと釣り糸を垂らしているだけで幸せ、というタイプのようです。


 心を落ち着けて、手竿の先端に釣り糸を結び付けました。竿と同じくらいの長さの道糸ラインです。ウキ止めのゴム管を通してから、紙片のような板重りを巻きつけて、竿とは反対側の端に、専用の小型金具を取り付けます。そこから先はハリス――釣り針に直結した糸――になるわけです。

 このように、仕掛けの用意が終わり、さあ針にエサをつけるぞ、というタイミングで。

 ポチャンという音が、湖から聞こえてきました。

「あら!」

 大きな魚が跳ねたのかと思って、ハッとした私は、そちらに目を向けたのですが……。

 違いました。

 それは着水する音だったのでしょう。数センチほどの物体が、水面に浮かんでいます。

 正体を察した瞬間、私の表情が曇りました。

 同時に、背後からガサゴソと、茂みをかき分けるような物音も聞こえてきて……。

 続いて、一人の男が現れて、私に言いはなったのです。

「おや、これは失礼。先客がいたようだね」

   

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