第2話 本当は違うルーセル湖

   

「ごちそうさまでした。今日の料理も美味しかったです」

 ナプキンで口を拭きながら、私はそのように述べました。

 妹のシルヴィに対する、精一杯のお礼です。本当は「ありがとう」というセリフを使いたいのですが、それではお母様が気を悪くするでしょう。シルヴィは擬似的な使用人として食事を用意してくれたわけですし、召使いに対して直接的な感謝の言葉を述べるのは、貴族には相応しくない態度でしょうから。

「ええ、美味しかったですね」

 お母様はサラリと流しますが、シルヴィの口元には、小さな笑みが浮かんでいました。寂しさも混じったような表情ですが、私の気持ちが伝わったからこそ笑ってくれたのだ、と思いたいです。


「今日も良い天気ですね」

「はい、お母様。素晴らしい青空が広がっています」

 窓に目を向けたお母様に、私は笑顔で応じました。妹も無言で頷いています。

 食事の席におけるシルヴィの立場は、少し微妙なものでした。一応は家族の一員として、一緒のテーブルで食べることが許されています。本物の召使いならば、貴族の私たちが食べている間は、立ったまま近くに控えているはずですが、そこまでは要求されていません。

 しかし、食事中も食べ終わった後も、お母様はシルヴィには語りかけず、私だけを話し相手としています。この点では、やはりシルヴィは『擬似的な使用人』という扱いなのでしょう。

「また午後は出かけるつもりですか、サビーナ?」

 こちらに視線を戻して、お母様が質問してきました。

「はい、そうする予定です。湖まで行き、少し魚を釣ってこようと考えています」

「ルーセル湖ですね?」

「はい、お母様」

 内心では顔をしかめながら、でも現実には笑顔を浮かべながら、私はお母様の言葉を肯定しました。

 本当は、そのような名前の湖ではないのです。しかし、足繁く通う場所ならばルーセル男爵家の所領の一部である、というのがお母様の認識でした。私もそれに付き合うしかありません。

「良い心がけですね、サビーナ。好きなことをして悠々自適に過ごすのが貴族というものであり、あなたの場合は、魚釣りが趣味なのですから。特にルーセル湖であれば、領地を見て回る、という意味にもなります」

 お母様の『領地』という言葉に反応して、シルヴィが苦笑いしたのが、私の視界に入りました。私だけであり、幸い、お母様には見えていないようです。

「はい、お母様。食べられる魚が釣れたら、今日のディナーが一品、増えることになるでしょう」

 魚を捌くのはシルヴィです。ここでも本当は「頼みます」と口にしたいのですが、それは貴族が召使いに言うべきセリフではありません。

 何も言わずに、チラリと妹の方を見るにとどめました。彼女は小さく頷いてくれたので、それで良しとしましょう。

「では、お先に失礼します」

 お母様と妹がまだ座っているうちに、私は席を立ちました。食べ終わった食器を、テーブルに残したまま。

 これも本当ならば、自分が食べた分の後片付けくらい、自分でしたいのですが……。妹の仕事を奪うわけにはいきません。

 だから私は、貴族令嬢らしく優雅に、手ぶらでダイニングルームから立ち去るのでした。


――――――――――――


「ああ、なんと清々しい気分なのでしょう!」

 家を出て歩き始めた途端、そのような言葉が、自然に口から飛び出してきました。

 遠くまで見渡せる、のどかな田舎の道です。雲ひとつない青空も、見上げるまでもなく視界に入ってきます。

 こうして歩いていると、私自身まで、広大な大自然の中に溶け込んだ気分。心の器が広がって、気持ちも大きくなります。

 土の道路の両側に広がるのは、誰のものでもない雑木林や、農家の畑ばかり。せせこましい住宅街ではないので、ほとんど民家も存在しません。

 釣り道具一式を手に持って、釣竿だけは専用ケースに入れて背負って、気持ち良く湖へ向かいます。途中、畑仕事をする農夫の姿が目に入りました。

「ごきげんよう、ベスコンさん」

「こんにちは、お嬢様」

 私が気さくに声をかけると、彼はくわを振る手を止めて、お辞儀してきます。そんなつもりはなかったのですが、仕事の邪魔をしたみたいで、少し心苦しくなりました。

「お嬢様は、今日もルーセル湖で魚釣りですか?」

「そうですわ。あの場所、私のお気に入りですもの」

 そう返す私の顔には、苦笑いが浮かんでいたことでしょう。地元住民の口から『ルーセル湖』という言葉を聞かされると、くすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになるのです。


 あの湖をルーセル湖と言い出したお母様は、家の中だけでなく、外でもその呼び名を使っているようです。そして、それが受け入れられている……。

 そもそも私たちは、仕方なくこの地に移り住んできた身ですが、それを認めるのはお母様のプライドが許しません。体裁を繕うために、この地域の者たちに対しては「物好きな貴族が一年中、別荘の一つで暮らしている」という態度を取り続けています。

 でも、庶民だって馬鹿ではありません。食材などの買い物はシルヴィが中心であり、家に出入りするのも家族三人のみ。使用人の姿を一切見かけない時点で、彼らも「男爵家と言っても普通の貴族ではなく、ワケありなのだ」と気づいていることでしょう。それなのにお母様の見栄に付き合ってくださるのですから、近隣の住民は、本当に優しい方々ばかりなのです。


――――――――――――


 顔見知りに挨拶しながら、30分ほど歩くと、目的地に到着しました。

 街道脇の小さな林道に入って、すぐの場所です。森が開けた途端、目の前に広がるのは、美しい水面!

 まるで湖底が見えるかと思うほど、透き通った水をたたえています。ひと周り歩いて数時間くらいの大きな湖、通称――お母様の命名に従うならば――ルーセル湖です。

「うーん、素敵!」

 水際ギリギリまで来て立ち止まり、私は両腕を広げて、大きく深呼吸しました。水辺の独特の香りを、胸いっぱいに吸い込むのです。

 これだけで、心も体もリフレッシュ!

 お母様の使用人ごっこに付き合ったり、そのせいで可愛い妹を虐める羽目になったり、家の中では気持ちが暗くなることも多々ありますが、それらの嫌な気持ちがバッと吹き飛びます。自然の中では一人の人間など小さな存在であり、それぞれが抱える悩みだって取るに足らない話、と思えてくるのです。

「よし!」

 意識することなく自然に、両手で挟み込むようにして、左右の頬をパンと叩きました。さあ今から釣りをするぞ、と自分に気合を入れたくなったのでしょう。

 そんな感じの、少し高揚した気分で……。

 私は満面の笑みを浮かべて、湖岸を歩き始めました。

   

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