緑の微笑

@yuraminoru

 


 緊急事態宣言が発表された二〇二〇年四月のその日の朝、けんはいつものように自宅のバルコニーで仕事の準備を始めた。いわゆるテレワークというやつだ。まだ朝の八時前だが、バルコニーに置かれたプランターのミニトマトの苗にはすでに根元まで十分な陽光が届いている。健は椅子に座るとテーブルの上にノートパソコンを置き電源スイッチを入れた。そしてパソコンが立ち上がるまでの間、やにわに着ていたTシャツを脱ぐと短パン一丁の姿となり、座ったまま手足を広げて大の字のポーズをとった。傍からみると、在宅勤務時間中に仕事をさぼってこれから日向ぼっこでもしようかという怠惰なサラリーマンにしか見えなかっただろう。

 健は広げた手足の前面すべてに太陽光が当たっていることを確認すると、そっと目を閉じ、息を止めた。体中に充満してくる不思議なエネルギーの感覚は、いつ感じても心地よいものだった。そのまま息を止め、一分・・・二分・・・三分が経過したころ、苦しくなり息を吐いた。息を吸ったのではなく、息を吐いたのだ。健の吐いた息には、自然界の酸素濃度二十一%よりも数%濃い濃度の酸素が含まれていた。苦しくなるのは肺の中の二酸化炭素濃度が増えたせいではなく、血中酸素濃度が増えすぎて酸素酔いが始まる兆候だった。

(よし、準備完了だ。さっそく仕事にとりかかろう。今日は一日中天気がよさそうなので、本業も副業も順調にはかどりそうだ)

 今となってはもう、健の副業がどちらか、本人でさえ区別できなかったが、仕事のひとつはプログラマであり、もうひとつは自分の体で光合成をすることだった。


 健もかつてはプログラマだけを本業としていた。情報系学科を卒業した後、ある私立財団の経営するIT企業に新卒で入社し、以来ずっと同じ会社で働いている。転機が訪れたのは二〇十七年だった。当時は三〇代前半で、プログラマ定年三十五歳説によればあと数年で仕事人生の末期を迎え、その後は何時あるか分からない景気後退によるリストラに怯えて生きなければならない、そんな漠然とした不安を抱え日常を過ごしていたとき、健は妻のかおりと出会った。香は健と同じ私立財団の所有する専属病院に勤務する医者だ。健より年上だったし収入も上だったので、周りには結婚についていぶかしがる人間も多かった。実際、健はかなり幸運だった。適齢期をほどほどに過ぎていた香は、同じ病院に研究室を持つ教授に縁談の紹介をお願いした。教授は香のかつての指導教官でもあった。教授はさっそく同じ財団配下のIT企業で働く高校時代の同級生に連絡を取り、その同級生が部下だった健を紹介した。教授と香、上司と健の四人で開いたお見合い替わりの食事会で、初めは緊張してぎこちない会話しかできなかったが、お互いに旅行好きであることを知ってからは話が盛り上がり、その先はとんとん拍子に結婚まで進んだ。香と健の新婚生活も初めのうちは順調だった。しかし健が人体光合成治験を受けてから、どことなくすれ違いの日々が続いていた。


 二〇一八年、教授は人体による光合成プロジェクトに取り組んでいた。すでに人類活動の影響による地球温暖化はのっぴきならない状況に達している。地球温暖化を止めるためには二酸化炭素の排出を止めなければならない。しかしいくら化石燃料のエネルギー効率を上げたところで、人口が増えてしまえば、わずかな効率化による削減量など一瞬で相殺されてしまう。ならば人口が増えれば増えるほど二酸化炭素を減らす仕組みを作ればよい。その概念を体現するスキームが人体光合成、という算段だ。

 だがヒトの細胞に葉緑体を繰りこむという取り組みは困難の連続だった。欧州の研究機関では、光合成によるエネルギー生成がもたらす食料問題の解決の方に主眼を置いた同様の研究を進めているが、現在までのところ試験管内での基礎研究にとどまっている。対する教授のチームは光合成による二酸化炭素から酸素生成のほうに主眼を置き、体細胞全体への葉緑体注入の前段階として、まず血液における光合成を実現することに注力していた。そのプロセスはこうだ。はじめに被験者の骨髄から造血幹細胞を取り出す。そして被験者に放射線治療を行い体内の造血幹細胞を死滅させる。ここまでは通常の骨髄移植と同じステップだ。しかしその先、被験者の骨髄に移植するのは、別のドナーから採取した骨髄ではなく、被験者自身の骨髄から採取した造血幹細胞に葉緑体を注入した幹細胞だ。

 研究の初期は、幹細胞に葉緑体を入れると血液細胞が十分に増殖しない難点があった。被験者自身の骨髄は放射線により破壊されているため、もし血液細胞が十分に生み出されなければ被験者はそのまま死に至ることになる。この問題を教授はつぎのように解決した。教授は細胞の持つ四十六本の染色体のうち、Y染色体の空き領域に着目した。Y染色体のDNAには、機能が明確には分かっていない、いわゆるガラクタDNAが占める領域が広く存在する。教授は造血幹細胞のY染色体のDNAのガラクタ置き場を、最新の遺伝子組み換え技術を使ってイチョウ精子由来の遺伝子に書き換えることで、葉緑体を含んだ血液細胞が増殖を始めることを発見した。ヒトのように精子を持つ裸子植物由来の遺伝子を組み込むことで、葉緑体に対する拒絶反応を回避できるのではないかという教授の直感が生んだ大発見だった。

 しかし問題がまだ残った。技術的な問題ではなく倫理的な問題だ。世界では遺伝子組み換えを行った細胞で行う臨床試験は、患者が健康問題を抱えている場合のみに許されるというコンセンサスが存在する。欧州の研究機関がまだ試験管内での実験にとどまっているのも主には倫理的な理由からだ。ある国の医師はゲノム編集ベビーを誕生させたことで実刑を受けたという例もある。健康上問題のない被験者に人体光合成の臨床試験を行うことはできない。二つ目の問題に突き当たった教授は、財団が数年前から構築していた全従業員のDNAデータベースに頼った。(1)心肺、呼吸器系に健康上の問題を抱える者、(2)造血機能に問題のない者、そして(3)男性、の3条件を満たす該当者はわずかであったが見つかった。そのうちの一人が、またしても健だった。


 香を通して教授から健に治験の打診があったのは二〇一九年の一月だった。香も知らなかったが、健は生まれつき肺に奇形を抱えていた。奇形のせいで子供のころから血中酸素飽和度が足りないハンディキャップをずっと感じていた健は即答で治験への参加を決断した。香は反対した。そんな危ない橋を渡らなくてもふつうに暮らせているじゃない。わたしが治療法を探して必ず治すから、とも言ってくれた。しかし健の決意は揺るがなかった。人類の進歩のため自らを犠牲にするという崇高な使命感もあったが、それ以上に個人的な野心があった。もし人体光合成を行うことで、普通の人と同じ酸素飽和度を手に入れることができたとしたら、プログラマとしての寿命が延び、三十五歳を超えてもいまの仕事を続けられるのではないか?いや、さらに常人よりも高い酸素濃度を手に入れることができれば、ひょっとして不世出の天才レベルの仕事ができるかもしれない。膨れ上がった野心の前に、香の忠言はもはや意味を持たなかった。財団の命を受けた上司も健の治験参加と長期休養を快く承諾した。健は放射線治療に耐え、葉緑体入り造血幹細胞の再移植手術を受けた。予後は順調だった。しかし香の懇願を聞き入れず、自分の独断で将来を決めてしまった健と香のあいだには埋めがたい心理的な隔たりが生じてしまった。


 決定的な亀裂が生じたのは六月初旬の雨の夜のことだった。その日は香の帰宅がとても遅かった。香は医者として外出自粛期間中も毎日出勤していた。健は在宅勤務なので香の帰宅を待つのには慣れていた。しかし香は毎日いつも同じ時刻に出勤し、毎日ほぼ同じ時間帯に帰宅するのが常だったので、こんなに帰りが遅い日は珍しかった。

「おかえり。遅かったね。きょうはどうしたの?」

「仕事が長引いてしまって。連絡できなくてごめんなさい」

「ごはんは食べてきたの?」

「ううん。でもお腹減っていないの。シャワーを浴びたらすぐ寝るわ」

 香は疲れて機嫌が悪い様子だった。

「あ、それと」

 香は一瞬ためらったような表情をしたあと、思い切ったように言葉を吐き出した。

「言いにくいんだけど、あなたのいびきの音が大きくて最近よく眠れないの。今夜から寝室を別にしてくれない?」

 たとえ年齢と年収の差があっても、香はそれをいままでおくびにも出さずに対等な夫婦関係を築こうと努力していることが健にはよく分かっていた。分かっていたので突然の強硬な要求にも情けなく黙って従うしかなかった。しかしいったい香はどうしてしまったのだろう?こんなことはいままで無かったのに。いや、僕が気づかなかっただけか?造血幹細胞は皮膚を構成する樹状細胞も形成するため、血液以外にも皮膚にも葉緑体は増えてきている。それは間違いない。僕の体が緑色になっていくのを生理的に受け入れられなくなったのかもしれない。その夜はいびきを気にしたのと、久しぶりに一人で寝たせいで健はほとんど寝付けなかった。


 次の日、健は財団病院の一室に居た。教授と月に一度の定期面会の日だ。四月、五月とリモートでの面会だったので、直接会うのは三か月ぶりだ。

「やあ。ひさしぶりだね」

「おひさしぶりです。先生もお変わりなく安心しました」

「ステイホーム期間中の様子はどうだったね?」

「まったく不都合ありませんでした。自分でも驚いたのですが、あれほど旅行好きだったのに、植物の血が混じってからは移動欲がめっきりなくなりました。移動の欲って、いままで当たり前すぎて意識したこともなかったですけど、もしかしたら動物の基本本能のひとつに数えられるかもしれませんね」

「草食系を通り越して植物系になったというわけか。光合成の調子のほうはどうかね?」

「昨日は曇りだったのですが、二分半ぐらいで苦しくなりました」

「それはすごいな。他の治験者でもそれほど短い時間で飽和に達する患者はまだいないよ」

「先生、僕のほかにも治験者がいるんですか?」

「おっといけない。これは秘密だが、ほんの少しでも酸素濃度を上げたいというアスリートがいてね。財団以外にも治験者を広げているんだ」

「でもアスリートならそもそも心肺機能に障害はないですよね?倫理的にはだいじょうぶですか?」

 そう聞くと教授は顔をしかめつつ答えた。

「本来はよろしくないことだ。しかし来年のオリンピックを成功させたい政府からの要望で、政府が臨床試験を黙認することを条件に、限定的に治験を施している」

「先生、まさかあの水泳選手がこの治験者ですか?」

「馬鹿をいっちゃいかんよ。彼女はどちらかというと短距離が得意だ。無酸素運動に光合成による酸素ドーピングの効果は限定的だ。それに彼女は女性だ。Y染色体がなければこの治験は適用できない。」

「そうでした、すいません。馬鹿なことを聞いてしまいました」

 しかし男性選手にしたところで、血液検査を受ければ葉緑体の存在はすぐに発覚してしまうだろうに。もしかしたら通常のドーピング検査では見つからないという確証があるのだろうか?

「先生、アスリートが葉緑体による酸素ドーピングをしてまで、オリンピックで良い成績を取りたい動機って何でしょうか?」

「常人には分からない世界だろう。きっと彼らに直接聞いても答えは分からないんじゃないか?たぶん、ベーシックインスティンクト、基本的本能です、とでも答えるんじゃないだろうか。君の言った移動欲みたいな」

 これまた愚問だったと健は反省した。自分だって常人を超える酸素濃度を得たいと思ってこの治験に志願したのではなかったか。うつむく健に構わず教授は世間話を続ける。

「そういえば昔、英語の原題名が『Basic Instinct』という映画があったな。あのころの映画の題名は日本語訳が絶妙なものが多かった。あの映画の日本語タイトルは何だったか、あれ、思い出せない。きみ、覚えているかね?」

 昔の映画のことを聞かれても分かりませんとしか答えようがない。

「最近はスポーツ以外でも臨床検討が始まっていてね」

 教授は機密事項をつぎつぎと健に教えてくれる。そのオープンな喋りようは、健の治験が本当は失敗していて、冥途の土産に何でも話してくれているかのような不安を健に抱かせた。

「別の用途があるのですか?」

「ある政治家がプロジェクトの存在を嗅ぎつけて、この治験を受けたいというのだ。たとえコロナウイルスに罹っても人工呼吸器もECMOも必要ない、水を飲んで光を浴びていれば呼吸をしなくてもよい。ある意味究極の肺炎対策ということなのだろう」

 話題が途切れたところで健は思い切って別の質問をしてみた。

「ところで先生、昨日妻の帰宅が遅かったんですが、何かとても機嫌が悪くイライラしているようでした。先生は何か事情をご存じですか?」

「香くんがかい?わたしは何も知らんよ。コロナやら何やらで忙しく心身とも疲れているのだろう。そっと労わってあげなさい。」

 そのときは、教授が自分の妻を下の名前で呼んだことがすこし気になっただけだった。


 事態が動いたのは七月だった。病院から緊急の呼び出しがあった。病院の一室に通されると、そこには教授と、なぜか香の姿があった。

「香?どうしてここに?」

「いいから。まず落ち着いて教授の話を聞いて。」

 相変わらず香の口調はどこか冷たい。しかし教授の慌てぶりから察するに、何かとても困ったことが起きたらしい。やはり僕は余命いくばくもないのだろうか?

「君の精原細胞の中に、わたしが組み込んだイチョウ由来の遺伝子が見つかった」

 それだけ聞いても、医者ではない健には何が重大なことなのかよくわからなかった。

「あってはいけないことが起きてしまった。造血幹細胞から精原細胞へ遺伝子が転写するなんて」

 転写するとどうなるというのか?アレが緑色にでもなるのだろうか?そうしたらさらに香に気持ち悪がられてしまうかもしれないな。まあ、でもこれ以上に嫌われることはないだろうし、それがそんなに深刻な問題だろうか。

「つまり、君が葉緑体アダムになる可能性があるということだ」

 葉緑体アダム?ミトコンドリアイブなら聞いたことがあるが。ミトコンドリアは母系の細胞由来のものしか遺伝しないことは有名なSFホラー小説のおかげで知っている。それの葉緑体バージョンということか?

「すまん、葉緑体アダムは表現が間違った。まだきみの生殖細胞内に葉緑体は見つかっていない。卵子の側に葉緑体が存在しなければ、たとえきみの子供であっても、光合成能力は持たない」

 それならいったい何の問題があるのだろう?

「問題は、生殖細胞の遺伝子組み換えはご法度ということだ。これまでは被験者の健康上の理由を隠れ蓑にして政府の暗黙の承認の下に臨床研究を続けてきた。まあ、すでに一部の被験者についてはその名目もすでに反故になってはいたが。しかし今回、きみの生殖細胞に組み換え遺伝子が転写されてしまったことで、その隠れ蓑も使えなくなってしまったのだよ。本研究は中止だ。いや、中止だけならまだよい。もしきみのケースが発覚したら、わたしも財団も、世間的に致命的な評価を受けることになる。Y染色体のガラクタDNAにはまだ不明な点が多かった。にもかかわらずガラクタと思って安易に遺伝子組み換えを行ってしまったわたしの責任だ」

 そう言うと教授は頭を抱え込み、それっきり黙ってしまった。健にとっては教授と財団の名誉よりも、せっかく手に入れた新しいこの体の今後のメンテナンスがどうなるかのほうが気がかりだった。教授はうなだれた顔を上げると、憂鬱な面持ちで言葉をつづけた。

「そして」

 まだ続きがあるのか。

「この先は、香くん、きみから話してくれないか」

 教授が香を下の名前で呼ぶことにも、もう慣れていた。

「わかりました。健くん、わたし妊娠したの」

 あまりにも意表をつく告白に健は自分の耳を疑った。え?妊娠?この2か月間、いっさい体に触れさせてくれなかった香が妊娠?本当に僕の子なのか?のどまで出てきた言葉をぐっとこらえた。教授が口ごもりながらそのあとをひきとる。

「もし香くんの、いや、きみのこどもが、女の子であれば問題はない。しかしもし男の子だったとすると・・・」

 男の子だとしたらどうなのだ?望まれないY染色体がこの世に産出される前に消去してほしいと言うのか。命を救うべき医者が職業倫理に反することを軽々しく口にするはずがない。だがその信頼はあっさりと裏切られた。

「香くんにも中絶するように頼んだのだが。きみからも説得してくれないか?」

 その頃までに健は、香と教授に対してどうしようもないほど嫉妬をこじらせてしまっていた。あの六月の夜、香は教授と一緒にいたのではないだろうか?もしかしたら二人はずっと以前から付き合っていて、教授は自分の愛人を僕に押し付けたのではないか?中絶したいのは教授自身の子の可能性があるからじゃないのか?いや、もしかしたら教授が消したいのはまずこの僕の存在だろうか。いろいろな考えが頭の中をぐるぐる回ってまとまらない。しばらくつづいた沈黙を破ったのは香だった。

「先生、わたし産みます。」低く、意思の強さを感じさせる声が室内に響いた。

「年齢のこともありますし、産ませてください。いや、ぜったいに産みます」

 香、いけない、だめだ。きみまで教授に抵抗すると、消される命が二つから三つに増えてしまいかねない。だがそんな心配を教授の前で口にすることはできない。どう答えればいいのだ?逡巡する健をさしおいて、決断が早かったのはやはり教授のほうだった。

「そうか。わかった。きみたちの意思を尊重しよう。わたしも覚悟を決めたよ」


 その年の秋のあいだ、健たちは何時くるか分からない教授からの殺し屋に怯えて過ごした。健たちといっても、香のほうはあまり気に留めていない様子だった。香はふつうの人間だし、お腹の子も女の子が生まれてくれば(父親の問題以外は)まったく問題がない。しかし改造人間であり、教授の犯した罪の生きた証拠である健のほうは気が気でなかった。教授は治験者全員を抹殺する気だろうか?いや、そんなことはできるはずがない。あの政治家だって含まれているし、政治家に手を出せるわけがない。健は不安を解消するため光合成に精を出した。光合成を行っているときは不安も嫉妬も何もかも忘れさせてくれた。しかし陽光は秋の深まりとともにしだいに弱まっていった。

 その少し前から健のからだには別の変化が起きていた。健はその変化を受け入れ、不足する光合成を補うかのように不安解消のための新しい習慣とするようになっていた。秋も終わり冬になると、健の家庭はいったん平静を取り戻し、一向にやってこない殺し屋のことも、新しい習慣のこともすっかり忘れてしまった。そして年が明けて二〇二一年になり、ついにその日がやってきた。


 香が臨月を迎えた二月、底冷えのする寒い朝だった。夜明け前にチャイムがけたたましく鳴った。ついに来たか、と健は人生の終わりを覚悟した。インターホンの画像を確認すると、自室の前の廊下に人だかりができている。殺し屋にしては全員身なりがよい。さてはこの場では手を下さずにどこか別の場所へ拉致するつもりだろうか?

「どちらさまでしょうか?」

「農林水産省だ。ここを開けろ」

 殺し屋の意外な名乗り方に不意を突かれたが、健はすぐその名称の持つ意味に思い当たった。

「どのような用件でしょうか?」

「植物防疫法違反の疑いで家宅捜索する。はやくドアを開けろ!」

 健は言われるままにドアを開けて廊下の人だかりを受け入れた。

 夏のはじめごろから健の体には変化が起きていた。この変化は教授にも話さなかったし、寝室を別にしたため香にも気付かれることはなかったが、健の首の周りに小さい丸い球状の物体が発生するようになっていた。それはミニトマトの花芽が茎から伸びる様子に似ていた。数はいちどに多いときで十数個。健はこれを定期的に“収穫”した。球状の物体ははじめ柔らかく、収穫後時間が経つと表皮が固くなった。数がたまると、健はこれを定期的に海外に発送した。この丸い球状の物体が種子なのか、土に植えると芽が生えてくるのか、そんなことは調べもせず、とにかく世界各地に送りつけた。送り先は地球温暖化により焼失した山火事地域を優先的に狙った。これは人類が地球にもたらした災厄への自分なりの償いだ、というのは建前で、本当はただどうしても種をまき散らしたい播種本能が健を支配していた。動物にも播種本能はある。だがせいぜい不倫でもして一個体、二個体分余計に遺伝子を残すのが精一杯だろう。それに比べると植物の血が混じった健の播種本能はまさに桁違いだった。すこしでも繁殖可能性の高い地域を狙って蒔け!蒔け!蒔け! 頭の中を支配するその言葉に衝き動かされ、健は収穫しては発送する作業にいそしんだ。今日の捜査の日がくることも心のどこかで予測していたが、どうしても止められなかった。後悔はしていない。

 呆然としたままソファに座っていると、奥の寝室から香のうめき声が聞こえてきた。

「けんちゃん、ちょっと・・・」

「どうしたの?」

「陣痛が来たみたい・・・」

 テーブルの上のノートパソコンを押収しようとしていた検疫官に向かって健は慌てて大声で叫んだ。

「すいません!救急車を、救急車を呼んでください!」


(けんちゃん・・・けんちゃん・・・ねえ起きて・・・)

 遠くから聞こえてくる香の声に促されて健は目覚めた。目の前の大きな銀杏の枝の隙間から木漏れ日が差し込んでいる。思いだした。マンションそばの公園の広場まで散歩に来て、そのまま木陰で横になり、気持ちよくなって寝てしまったのだ。

「またいびきかいてた?」

「ううん。お日さまを浴びているときは無呼吸になれるからだいじょうぶみたい」

「そうか、じゃあ寝るときも光を当てればまた一緒に寝られるかも?」

「そしたらまぶしくてわたしが眠れないじゃない」

 二人は声を上げて笑いあった。

 あの日、香の陣痛により捜査は中止となり、香はすぐに病院に運ばれた。生まれたのはさいわい女の子だった。名前はめぐみと名付けた。恵を授かったことで、夫婦仲は不思議なぐらい自然に以前の円満な状態に戻った。香が優しく話しかけてくる。

「去年の五月はどこにも出掛けられなかったね」

「去年は二人。今年は三人。来年は何人かな?」

「ばか。一緒に寝たってもう無理よ」

 その後、捜査が再開されることはなかった。財団が政治家に手を回してくれたらしい。教授は健や香の口封じなど微塵も考えておらず、もし男の子が生まれていたら社会的制裁を甘んじて受ける覚悟だったとあとで聞かされた。ときどき健に機密事項を漏らしていたのも単に口が軽いだけだった。また、教授のゼミでは昔からお互いをファーストネームで呼び合う習わしがあった。つまり、香の浮気疑惑は完全に健の思い込みだった。

 恵はまぎれもなく健の子だった。恵を抱き上げた瞬間、健のからだに電流が走り、健はまた新しい別の本能、父性に目覚めた。DNA検査なんて必要ない、この子は僕の子だと健は確信した。しかし健の父性は人間のものとは少し異なっていたかもしれない。葉緑体入りの血液は脳にも少なからぬ影響を及ぼすらしく、植物が種の存続についてどのような戦略を持っているのか、健には少し分かった気がした。彼らは一個体の存続を目的とせず、種全体の存続を考えている。種子や花粉をばらまく行為は、哺乳動物から見ると無責任かもしれないが、じつは種の存続という目的を達するならば、どの個体の子孫であってもかまわないという共通の本能を持っているということが、健にはおぼろげに理解できた。ゆえに恵は健の子であり、人類の子どもでもある。父親が誰かなんてちっぽけなことだ。同じ治験を受けた政治家にもいまごろ同じ意識が目覚めているのではないだろうか?そう思うと健の心は弾んだ。この先、世界中の首脳が肺炎対策としてこの治療を受けたら、一個人の利益や一国家の繁栄だけを追及することを止め、人類として種全体の存続をより真剣に考えるようになる。そうなれば人類が生き残れる可能性も広がりそうだ。

(ねえ、イチョウさん)健は目の前の銀杏の木に向かって心の中で語りかけた。

(人類はようやく地球と共存できるサステイナブルな存在に進化できるかもしれないよ)

 そうつぶやいて上を見上げると、緑の葉がそよそよと風に揺れて、それは銀杏の木が微かに笑ったように健には感じられた。


 完

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