第4話

「疲れた」

 そう言ってベッドに倒れ込んで、布団の海に沈み込む。

 加奈子さんとのやり取りは、神経を限りなく摩耗させたが収穫はゼロじゃなかった。

(千紗。お前になにがあったんだ)

 返信がないスマフォを見て頭の中を整理する。

 確定しているのは、千紗が学校に来ていないこと。そして、千紗はすくなくとも一週間前まで家にいたということだ。

『実は千紗、今月に入ってから家出しちゃって、どこにいるのか分からないのよ』

 だけど、テーブルにあった新聞のゴミ箱は、千紗が作ったもの。美しい正方形と、白線のようにしっかりとした折り目は千紗のクセだから。

 しかも使われた新聞の日付がちょうど一週間前。つまり、千紗はつい最近まで家にいた。

(なんで、わざわざすぐバレる嘘をついた?)

 判断材料が少なすぎる。千紗の部屋に手掛かりでもないだろうか。

「ん?」

 千紗の部屋というキーワードに、ふと思い当たる。

 もし、加奈子さんが誘惑してこなければ、オレは手がかりを求めて千紗の部屋に入っていた。

 加奈子さんがあんな態度をとったのは、オレを一旦帰すことが目的だった。千紗の部屋に入らせないために。

……とするなら、部屋に千紗本人か彼女の手掛かりがある可能性が高い。

 オレはごろんとベッドの上を反転し、机の引き出しにある506号室の合鍵を使おうかしばし迷う。

 この半年の間に鍵穴が交換されていないのなら、506号室に入ることは可能だ。


――だけど、それでいいのか?


 オレは己の行動に疑問符を浮かべる。

 千紗は本当に助けを求めているのか。加奈子さんは何とかしたいのかもしれないけど、結局学校に行くか結論を出すのは千紗本人だ。

 もし、仮に千紗が助けを求めているとして、助けるのがオレでいいのだろうか。

「いや、だめだ」

 首尾よく千紗を助けることが出来たとして、オレはもう二度と、千紗と離れることが出来なくなる。

 もちろん、千紗もだろう。

 千紗の望む自立を、オレのせいで真っ向から叩き潰すことになるのだ。

 それに、全部がオレの妄想で、千紗が本当に家出した可能性もゼロではない。

 だから、オレはスマフォに手を伸ばして、千紗の担任にプッシュする。

 日曜日だというのに、湯島という教師は彼女を心配して家庭訪問に来てくれたのだ。

 オレ以外の誰かが千紗を助けることで、オレも千紗から自立できることを願って。

「こういう時こそ、頼りになる大人の出番なんだろうな」



 ベランダに出る。柵から上半身を乗り出して、隣の部屋をのぞき込もうとする。

 洗濯物が取り込まれたベランダ。ガラス越しに青いカーテンがかかっている部屋は、明かりが消えて不気味な存在感を放っていた。

「こんなに近いのに」

 どうしてこんなに遠くに感じるのだろう。

 中学を卒業して、オレは千紗の自立のために、お互いの存在を意識しないように行動してきた。

 登校時間をずらす。千紗の居そうなコンビニとかに寄らないようにする。千紗に声をかけずに、気づかない振りをして通り過ぎる。

 すると、次第にオレの中から千紗の存在が小さくなり、彼女の思い出よりも明日の予定に意識が向くようになった。

 時間は常に流れて、寂しさも苦しさも洗い流されて、内に残るのは抜け殻のような残骸だらけ。

 バイトは楽しくて、バイクの免許を取る目標があって、夏休みはクラスメイト達と映画や肝試しをして楽しかった。

 文化祭で屋台をやることになって、バイトの経験が役に立って皆から頼られて嬉しかった。

 大切な千紗がいてもいなくても、オレの日常が揺るがないという残酷な現実。

 期末休みも、冬休みの約束も。これからも。千紗のいない思い出を積み上げて、オレはオレを形作って行くのだろ。

 今日の出来事は完全なイレギュラーだ。

 彼女のことが心配で、心の中が激情で溢れかえり飽和しそうになった瞬間。

 病的な己の一面を目の当たりにして、今更、このままではいかないと思うようになった。

(オレも、本当の意味で自立するべきなのだろう)

 卒業式の日に見た幻想――あふれる春の光。桜の雨。蝶のように光の向こうへ飛び立つ千紗。

 オレも殻を脱ぎ捨てて、光の向こうへ行けるのだろうか。

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