第3話

 オレの両親は、オレよりも仕事が好きで関心ごとがすべて会社に集約されていた。

 学校行事と保護者会。我が子のことに関しては必要最低限のことしか関わることなく、小学生のうちに家事の一通りを仕込まれて、早く大人になれと無言でせかされた。

 千紗と出会ったのは、オレが4歳か5歳ぐらいの頃だった。

 なにが両親の逆鱗に触れたのかは覚えていないが、雪が降る夜にベランダに締め出された。

 親は締め出された恐怖と夜の闇、雪が降る寒さでオレの反省が促せると考えたのだろう。

 だが、二人はオレが子供であることを失念していた。

 しんしんと降る雪の光景に目を奪われ、好奇心が恐怖を塗りつぶしていく。

 柵の間から頭を出して5階の高さから見下ろす夜の街。街灯が星のようにキラキラと輝き、花弁のような雪が降り積もる光景に幼いオレは寒さを忘れていた。

 ややあって。

「このバカっ! ベランダで反省しなさい」

 隣のベランダからガラガラと乱暴に戸が開かれて、小さな影が外に押し出されるのが見えた。

 ふらふらとよろけて囚人のようにベランダの柵を掴み、ずるずるとその場に座り込んで動かなくなる奇妙な生き物だった。

 オレは隣のベランダを隔てる仕切り板に近づく。取っ手のないドアのような仕切り板だ。マンション側の壁から三か所の留め具で固定され、ウッドデッキの床から数センチほど浮いている。

 しゃがみ込んだオレは、仕切り板の下にある隙間から隣のベランダにむかって声をかけた。

「ねぇ。だいじょうぶ。きみ、ひっこしてきた子?」

 最近、空っぽだった隣の部屋が騒がしい。母が言うには、シングルマザーが引っ越してきたと、めんどくさそうに言った。

 幼いオレは当然シングルマザーの意味なんて知らない。が、詳細を訊こうとすると鉄拳で飛ぶので、そんなものとして納得した。

「え、うっ、うん」

 肯定を返す声は、かぼそく震えていた。

 オレは、ぎりぎり仕切り板の近くの柵の間に顔を突っ込んで隣をのぞき込む。

 雪が降る寒空の下で、下着姿の小さな女の子が我が身を守るように腕をくんでへたり込んでいる。

 艶やかなおかっぱ頭。赤くて丸い頬。涙を流す大きな瞳と鼻水を流す小さな鼻。唇は少し青く、吐息が白く震えている。

 知らないということは恐ろしい。お仕置きとして、裸で外に放り出されたことのあるオレは、下着姿の女の子に対して哀れみよりも同族めいた意識が働いた。

「どこからきたのー? どこのよーちえん? おれ、ひいらぎよーちえん」

「え、うん。と、ほっかいどー。ようちえん、わからない」

 ぐずぐずと鼻を啜りながら、女の子はオレと同じように、柵から顔を出して答えた。オレはなんだか嬉しくなった。

 いつ親に怒りがとけて、部屋に入れてもらえるか分からない今、目の前の新しくできた友達になにかしたいと思った。

「おれはひびのかつや。すきなものはカレー。きみは?」

「えんどうちさ。すきなものは、おりがみ」

「さむくないー?」

「うん、さむい」

 即座に答える女の子の息は白く、露出している肌に無数の鳥肌がたっている。

 彼女も自分と同じ、いつ部屋に入れてもらえるか分からない。そう思うと、いつもとは違う、じんわりとしたものを感じた。

 幼稚園の友達と遊んだ時とは違うぷるぷるとしたふしぎな喜び。それはとても、あたたかいものだった。

「じゃあ、おれのセーターあげるー」

「え」

 特に考えがあったわけではない。自分は下にシャツを着ているから、寒さなんて大丈夫だと思った。

 その場でセーターを脱ぎ、仕切り板の隙間から隣のベランダにセーターをねじ込もうとすると……。

「バカな子ね。手間をかけさせないでよっ」

 般若の形相をした母が戸をあけて、オレの首根っこをひっ捕まえる。

 反省を促すどころか、考えの浅い子供たちのやり取りに危機感を覚えたのだろう。

 親からしたらお仕置き中の我が、よその子にセーターを差し出すなんて予想外中の予想外だ。

「もう、なんなのよっ! さっさと、部屋に入りなさい」

 と、同時に隣の戸も開けられて、女の子の母親らしき女性の怒鳴り声が響いた。

「ねぇ、アンタ」

 いつになく低い声で、母が威嚇するように柵から身を乗り出す。

「な、なによ」

 母の剣幕にひるんだ気配とともに、怯えた声が隣から聞こえた。今にも泣きそうな声だった。

「大変かもしれないけどね。子供の教育上、虐待は良くないと思うのよ。通報されたくないなら、よく考えてくれないかしら?」

「……わかったわ。もうしない」

 今思えば、オレの親は見事なダブルスタンダードだったわけだ。虐待している自分たちのことを棚に上げて、軽やかに相手を攻撃する。

 が、この一件を境に、オレの親も自分たちのやりかたを見直したように思えた。

 もちろん、千紗の母親も。

「ちさちゃん、またあしたー」

「う、うん、カッちゃん。またあしたーっ!」

 能天気に手を振るオレに、君は笑ってくれたね。


「カッちゃん、カッちゃん」


 手を繋いで一緒に遊ぶ。どこに行くのも一緒。ずっとずっと、オレ達は一緒。

 オレの幼馴染、オレが、ずっと守るから。


 なのに。

『おい、隣のクラスの及川と宮城って幼馴染なんだぜ』

『あー、どーりで仲良いと思った』

『こりゃ。裏で出来ているな』

『え。そうなると、オレも千紗も幼馴染なんだけど?』

 

 なにげないやり取りの延長線のはずだった。

 オレの言葉にみな黙り込んで、気まずそうに顔を俯かせる。


『幼馴染以前に、なんか、お前らイジりずらいんだよ。つーか、キモイ』


 沈黙に耐えきれなかったクラスメイトが、吐き出すように言った。


 キモイ? オレたちが?


 どこで、オレは間違えた。

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