第53話 カナエEND
秋だった。
どこからともなく枯葉が飛んできては、アパートの敷地内に堆積していった。あたしはそれらを竹ぼうきで一まとめにしている。しかし道のりは険しく、いまだに入り口付近を掃いていた。どうも、こういう作業は苦手らしい。
「ったくさァ。どこから飛んで来るんだか知らないけどさァ。もっと向こうの方に飛んでいってほしいよなァ。なんでうちのほうに飛んでくるんだか……」
ぶつぶつと文句を言っても、枯葉は一向になくならない。
突然、にゃあ、と猫の声がした。足元を見る。一匹の猫が擦り寄ってきていた。
「おー、おー」
なんとも可愛く慰めてくれているようで、あたしは右手で頭を撫でてあげた。瞬間、猫の意識が頭に飛び込んでくる。おなかが空きました、と言っていた。あたしもだよ馬鹿やろう、と猫を追い払い、引き続き作業に没頭する。声が掛かったのは、それからすぐのことだった。
「あのー」
「ん……?」
地面から視線を上げた。目の前に少女が立っていた。妙に垢抜けている。美少女の類だった。
今どきの女の子はこんなに短いスカートを身につけるのか、と関心してしまった。足も細く腕も細い。肩にかけたボストンバックが何かの罰ゲームに見えるほどだった。
なんだかどこかで見た顔だよなァ、とぼんやりと考える。
少女は、顔を隠すようにして紙切れを眺めていた。太陽光に照らされて、裏側からでも透けて見えた。どうやら地図やら文字やらが書いてあるようで、その目的地がここらしい。
「このアパートって」少女は紙を差し出した。「ここに書いてある住所で合ってますか?」
「うん、合ってるよ。何か用事? 誰かに会いに来たとか」
「あのゥ……お聞きしたいんですけど」
少女は探るような目で、あたしを見た。
「大家さんの連絡先、ご存知ないですか? マキさん、っていうらしいんですけど……」
「うん? 大家?」
あたしは、竹ぼうきの柄を自分に向けた。
「それって、あたしのことだよ。つまりあたしがマキさんだ」
唐突に、少女は怪訝そうな表情を浮かべた。
「あなたが、マキさんですか? 大家さんの? アパートの主の? 家賃をふんだくる?」
「そうだよ」
すごいだろ、と胸を張ってみせたが、華麗に無視された。ふんだくってやろうかと思った。
「あれー? おかしいな……でも、まあ、いいのかな」
少女は納得したように数度頷いてから、アパートを指差した。
「あの。実はわたし、入居したいんですけど」
「イヤだ」
「イヤです」
目が怖かった。
「わかった。負けた。正直に話す。部屋は空いてる」
頭を掻きながら、塀に掛かっている看板をアゴで指し示した。
「でも、書類関係は全部そこに委託してあるんだよね。だから、入居してくれるのはありがたいんだけど、とりあえずはそこに問い合わせてみてくんないかな。要仲介人、というわけ」
少女は黙った。しばらく止まった。機能が停止したようだった。が、ようやくあたしの言葉を理解したらしい。表情が一変した。
「ああ、やっぱりそうですか……もしかして、お母さん嘘ついてたんじゃ——あっ! まさかのまさかですけど、『マキ』っていうのは苗字ですか?」
「うん。マキ。マキカナエ。カナエっていうのは三本足の器の総称で——」
「——うわァ! もう最悪だァ!」
「え? なになに、どうしたの」
今にも地団太を踏みそうな少女は、きっ、と顔を上げると、一気にまくし立てた。
「わたし、叶えたい夢があるから上京したいって言ったら、お母さんが、このアパートに住むなら認めます、って言ったんです。それでお金とかも相談してくれるだろうから、とにかく大家と話してみろって。即日入居も大丈夫だろうって言うんですよ? あと、大家さんは今頃は四、五十代ぐらいだろうって言ってたんですけど」
少女はあたしをまじまじと見た。
「どう見たって、わたしとそう変わらない年齢ですよね。マキさん違いだよなァ! なんとかなるとか言ってさ! あの人はなんなんだろう、もう!」
あたしはポカーン、と少女を眺めていた。どこからその元気が沸いてくるんだろう、と考える。わからなかった。あたしのそれは、もはや季節の中に埋もれてしまったのかもしれない。
「えーと……」
あたしは宥めるように言った。
「あたしの知り合いなのかな、その人」
「えー? だってお母さん、おばさんですよ……? あ、わかった! もしかしてカナエさんのお母さんのことかな……だけど大家さんは……ああ、もしかしてお母さまは、あの、他界なされて……?」
少女は一人で怒ったり落ち込んだりしていた。なんだか面白い。
「いや、あたしは元から母親居ないから——そもそも、お母さんの名前はなんていうの?」
「え、あ、そうですか、すみません……名前は、サガミ、っていいます」
「サガミ?」
「あ、違うか。結婚する前だとしたらタケナシかな」
「下の名前は?」
「あ、そうか、そうだよね」
少女は急にあわてはじめた。どうやら相当おっちょこちょいらしい。
「お母さんの名前はナツキです。タケナシナツキって知ってますか?」
「んー。どうだろう」
タケナシナツキ、か。
はて。
聞いたことがあるような、しかしなんとなく思い出せないような。ユカリの友達だとしたら年齢が合わないから、どうしたってあたしの顔見知りなのだけれども——。
タケナシナツキ。ナツキ。ナツキ。ナツキ?——あれ、もしかして。
「あー! わかった。思い出した。ナっちゃんだ。そうだそうだ。わかったぞ。君の家、ハルキっていう猫を飼ってるでしょ。あ、飼ってた、だね」
「猫? ハルキ? たしかハルキっていうのは猫じゃなくて、死んだ伯父の名前だと思いますけど」
「まあ、どっちでもいいよ」
「どっちでもって……猫と人ですよ」
「おんなじようなもんなの」
「えー……」
「しかし、なるほどなあ」
そっかそっか、と感慨深くなってしまった。あんな子供がこんな子供を生む時代になったのか。そりゃあスカートも短くなるよなー。ナっちゃんがお母さんか。
「あのー……」
少女は伺うような視線で言う。
「お母さんの知り合いなら、即日入居って話は……」
「駄目」
「ええーっ!」
ケチー、と少女は飛び跳ねる。ウソウソ、とあたしは笑った。
「いいよ。一部屋だけ空いてるからさ。委託先にはこっちから伝えておくよ」
「ウソ!? ほんとですか!?」
「ウソではないよ。ほんとです」
「よかったー!」
少女はその場でピョンピョンと飛び跳ねた。スカートの中は水玉だったが、空は快晴だった。
喜色満面の少女を部屋まで連れて行く。鍵を開けて室内に招くと、わァ、とさらに顔を輝かせた。
「見た目はボロいけど」とあたしは卑下した。「住んじゃえば都になるから」
「平気です。母が笑って言ってましたから——崩れているかもしれないぐらい古いよ、って。でも、予想してたより綺麗でした」
「ああ、そう……」
母子ともに言い過ぎだよね。
「そうだ」大事なことを忘れていた。「君の名前を聞いてなかった」
「あ、はい。アキって言います……単純でしょ?」
呆れた、という風に少女は首を横に振った。
「え?」
二文字の名は、埋没していた記憶を掘り起こした。まさか、と思い尋ねてみる。
「もしかして、弟か妹は居る?」
「これまた、フユキ、という名の弟が一人。笑えませんよね」
「うわ……」
本当にやっちゃたんだ、あの子……。
「ヒドいセンスでしょ?」さほど気にしてはいない風に、少女は言った。
「まあ、なんというか。それはあたしが煽ったせいもあるのかもしれないというか」
「……どういう意味ですか?」
「んー、そうだなー。それはおいおい話してあげるよ。君のお母さんがお兄ちゃんを真似て生きていた、という過去を含めてさ」
「え?」
少女の顔が驚きに満ちた。初めて耳にする話題らしい。
「なんですか、それ」
仕返しだぞ、とあたしは思う。
崩れているかもしれない、には流石に傷ついた。
「本当なんですか、その話」
少女の食いつきは十分だった。瞳にはいくつもの星が輝いていた。
「よし。長い話になるからさ、今日は夕飯でも一緒に食べようじゃないか。引っ越し祝いも兼ねてね」
「あ、賛成です。ちなみに所持金は少ないですので、そこんところよろしくお願いしまーす」
「……ちゃっかりしてるねえ」
どうも、と言ってアキは舌を出した。可愛いので許してあげた。猫みたいな女の子だった。
「あ、そうそう。一つ訊きたいんだけどさ——」
そう言って、あたしは裏庭に続く窓を開けた。そこに居るのはあたしの家族であり、そして新規入居者の先輩方でもある。
もう、思い出すことすら一仕事になってしまったほどの昔——ユカリという人間とカナエという猫の、たった二人だけの家族が住んでいたこの場所は、今ではとても素晴らしい大所帯が住んでいた。人と猫の大家族だ。
それはあたしが守ってきたもの。そして、寂しがり屋の姉に証明し続けてきたことである。あたし達は一人じゃないよ、と叫んできた軌跡だ。
「——君はさ、猫は好き?」
好きだったなら、とても素敵だ。
嫌いだったとしても、なにも問題はない。
それが家族というものだ。好き嫌いは重要ではない。自分の全てを受け入れること。必要なことはただそれだけ。ただそれだけが家族に属す為のコツのようなものである。
——見てるかな、ユカリ。今日も家族が増えたんだ。
いつまで続くのかは解らないけれど、先が見えなくたってあたしは歩き続ける。それどころか、先の見えない方向を好んで歩き続ける。腕の力が消えない限り、あたしはあたしの信じる方向へ邁進する。不可避の未来など、あたしが壊してやるのだ。
それこそが、あたしに掛かった魔法の形——腕の力で切り開いていく、不定形の未来。
さあ、
だから明日へ向かって歩こう。
目前には問題があり、
背後には解答がある。
恐れることはない。わからなくなったら、振り返ればいい。答えはいつだって見守っている。どちらに転んでも文句は言わない。
「猫、ですか?——」
背後から声。あたしは振り返る。最中、でも嫌いだったらやっぱり悲しいなァ、などと考えてしまった。悟った風にしてはいても、多少の不安は付きまとうものだ。明日を見据える限りは、どれだけ悩んでも払拭できないものである。
しかし、
待っていたのはとびきりの笑顔だった。ぐっ、と持ち上げられた口角が、行く末を暗示している。
「——猫なら、わたし、大好きですよ!」
ほら、
諺にあるじゃない。
『当たって砕けよ』
長々と話してるけどさ、
つまりは、そういうことよね。
晩年のユカリだったら、そうやって切り捨てるだろうなあ。
なんだか可愛くないよなあ? ——なんてことを考えながら、あたしも負けじと笑顔をみせた。
外では猫が鳴いている。
触れなくても分かった。
皆もきっと、笑っている。
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