第51話 カナエ④

何十回、何百回と、あたしたちは散歩の回数を重ねていった。

 春は過ぎ、夏も去り、秋へ代わり、そうして今は冬が訪れていた。もはや身体の一部のようなアパートの一室で、あたしと姉は言葉を交わしている。

「そろそろ、駄目かもしれないね」

 姉はしみじみとそう言った。布団の上に横臥している。すでに立つ力さえ残ってはいないのだろう。本人いわく、しょうがないこと、らしい。

「そっか」とあたしはそっけなく言う。身体は姉の右手に抱かれていた。

「もう怒らないのね」

「病院行け、って何度忠告したって、無駄だから、の一点張りじゃあね。誰でもそうなると思うよ」

「怒ってるじゃない」姉は苦しそうに笑った。何度か咳き込む。

「大丈夫?」

「大丈夫では、ないわね」

「死ぬの?」

「うん」

「そう」

「ごめんね」姉は無表情のまま、申し訳なさそうな声で言った。

「なにに対して謝ってるの?」

「わたし、言ってないことがあるの」

「言っていないこと?」

「昔さ、階段から落ちて死にかけた、っていう話をしたじゃない」

「うん」

「あれ、続きがあるの」

「ふーん」どうでもよかった。そんなことよりも重要なことがあるからだ。

 それでも姉は言葉を止めなかった。

「じつはさ、わたし、昔から身体が弱くてね。いっつも入院ばかりしてたの」

「そうなの?」

 驚いた。出会ってから、病気になったところを見たことはなかった。今回が初めてだ。そしてその、初めて、で姉の生の灯火は消えようとしていた。

「いっつも一人だった。いっつもね。お父さんはもう死んでいたけれど、借金だけは残していたし、お母さんはまだ居たけれど、女手ひとつで病気がちの子供を養う為にさ、仕事ばかりしてたから」

「お母さんは頑張りやさんだったんだね」

「そうね」姉は何かに納得するように頷いた。「アパートを手放さずに借金返済と生活費をまかなったのは凄いことよね。母はずっと言ってたのよ。思い出まで手放したら生きていけなくなる、って」

 でもさ、と姉は言った。「でもさ、だからわたしはいつも家族が恋しくてさ、他人を羨んでばっかりだった。母の守りたかった思い出は、わたしにとっては未経験の過去でしかないからさ」

 あたしは考えた末に言った。「あたしが居るじゃない」

「うん。今はね」姉はあたしを左手で撫でた。「ある日ね、わたし、階段の途中で貧血を起こしたの。足を踏み外して、階段の上から下まで転げ落ちた」

「それで死にかけたの?」

「そう。結構危なかったみたい。それでね、わたしはその時に幽霊みたいなモノを見たんだ」

 数年前の会話がまざまざとよみがえった——幽霊、磁石、砂鉄。

「磁石と砂鉄の話だね」

「よく覚えてたわね」姉は嬉しそうだった。「足を踏み外して、わたしは階段を転げ落ちた。走馬灯を見た気がする。それも、悲しい思いをしていた頃だけの走馬灯。そして、それらが過った後——わたしの意識は、他の場所へ飛ばされた」

「他の場所?」

「文字通りよ。意識が他の場所へ行ったの。それ以上の説明が思いつかないわ。幽体離脱の状態に似ているのかもしれないけど……知らないでしょ? 幽体離脱」

「知らない」あたしは即答した。

「実はあたしもよく知らない」姉は自分の軽口に笑みを添えなかった。「その時、わたしの意識は暗闇の中を漂っていた。あたり一面が真っ暗闇。自分の身体さえ見えなかったけど、そもそも身体の感覚はなかった。きっと、他人の視界を見せられたら、あんな風なんでしょうね。身体は無いのに、視覚はある。何かを見ているという実感がある——そうして、それからすぐのことだったわ。アレがわたしの前に現れた」

 アレの正体は今でも分からないけど、と姉は続けた。「真っ暗な視界の先にアレは現れた。丸い形をしていた……ような気がする。光っていた……ような気もする。でも、ただただ白かっただけのような気もする」

 アレに限っては何が正確なのかが分からない、と姉は弱弱しく首を振った。「とにかく、アレはとても大きくて、凄く力強い存在だった」

 そして、と姉は言葉を繋いだ。「アレは磁石のような力を持っていたの。引き付ける力ね。そんな性質を持つアレが、わたしを引っ張りはじめたの。まるで、砂鉄をその身にひきつける磁石のような力で、わたしを引っ張ったの——」

 話の意味も意図も、これっぽちも解らなかったが、あたしは黙って聴いていた。

「——わたしは段々とアレへ近づいていったわ。どうしようもないから、なされるがままだった。そのうちね、わたしは気づいた。わたし以外にも引っ張られているモノが居ることに」

 それらは砂鉄のようだった、と姉は呟いた。「磁石のようなアレに比べたら、本当にちっぽけな存在だった。けどね、磁石にくっつく無数の砂鉄のように、引っ張られているモノの数は膨大だった」

 それらが一点に集まっていくのよ、と姉は語った。「十が百になって、百が千になった。単純な足し算が延々と続いているようにみえた。その時、わたしは感じたの。一つ一つは小さくても、磁石にくっつけば一体化してしまう砂鉄のように——わたしもアレに引っ張られ続ければ他の存在と一体化するんだろうな、って感じたの」

 それでね、と姉は言葉を紡いでいく。「わたしはアレの力によって、やっぱり他の存在と一体化したわ。でも、それはとても自然な現象のように思えた。それどころか、わたしという一つの砂鉄よりも、まとめられた砂鉄に属してしまったほうが、より強い存在になれた」

 そのときわたしは知ったの、と姉は言う。「アレに引き寄せられていた一つ一つの存在は、一人一人の意識なんだ、って。わたしは今、アレの力によって数え切れないほどの意識と同一化したんだなって、気づいたのよね」

 姉は一度だけ大きく息を吐いた。「その時のわたしは、安心感や充足感でいっぱいだったわ。加えて、他意識の持つ知識や価値観、そして、それらに対する正当な回答——そういった全てを、一瞬のうちに手に入れていた。全ての砂鉄が繋がっているからよ。アレの力も当然、砂鉄に行き渡り、わたしへと流れ込んできたの。その時、わたしという存在は激変した。黒に包まれていた視界が、真っ白になっていくのを感じた」

 そうして、と姉は締めくくった。「まもなくわたしは目覚めた。身体は正常。危うい箇所さえ見当たらなかった。数日間眠り続けていたことを医者に教えられると、涙を浮かべた母に抱かれた。なかなか見舞いに来られない母も、わたしが目覚めるまでは仕事を休んで傍に居てくれたみたい」

 ようやく理解のできる話にたどり着いたので、あたしは発言した。

「お母さんがそばに居て嬉しかった?」

 嬉しかった、という答えが返ってくると思っていた。しかし、姉は首を振った。

「それが全然嬉しくなかったの。驚くくらい冷静だった。要するに、その時のわたしは既に理解していたのよ」

「……なにを?」

「人間という器では一体感を得られない、ということ。アレに繋がってしまったから——だから、わたしの心は冷めていた。母の死でさえ、不可避の未来が現実になった、としか感じられなかった」

「ごめん」あたしは、残念だ、という感情を作ってみた。「よくわからないよ、ごめん」

「いいのよ、別に。それでね」姉は目を瞑った。あたしを何度も撫でいた。「猫であるカナエと話すことが出来る力——この右手に宿る力は、その時に手に入れたものなのよ。きっと、わたしたちを一まとめにした中心である、磁石のようなアレ、から得た力なんだと思う。欲した知識だけが、私の中に残留したのかもしれない」

 姉の左手があたしの背を何度も往復した。暖かな左手は、あたしの身体を撫でては離れた。 しかし、右手だけは常にあたしの身体に触れていた。そうしないと、猫であるあたしと人間である姉とでは、会話が出来ないのだ。

 話す、といっても発声しているわけではなく、頭に直接響いてくる感覚である。姉はよく言葉を口にしながらあたしに話しかけてはいたが、実際は無言でも意思疎通は可能だ。そして、これは大多数の人間には出来ないことらしい。

 姉は左手を休めなかった。その気持ちよさに身を委ねながら、「そうだったんだ」とあたしは言った。

「ごめんね」

「なんで謝るのさ」

「わたしはズルいんだよ。家族を求める想いと、どこか冷めた想いを納得させる為に、カナエを利用してたんだ」

「どういうこと?」

「三本足のあなたは、どこか仲間はずれの存在に見えた。生まれたときから三本足だったことを、当初は知らないで近づいたけれど、それを知ってからは尚更あなたが孤独な存在に見えた。だからわたしはアナタを家族として傍に置いた——いえ、居てもらった、が正しいのね」

「それは……酷いことなの?」

「ねえ、カナエ。鼎ってどういう意味かわかる?」

「わからない。教えてくれなかったじゃない」

「鼎ってね、外国の器の総称なんだけどね、それは普通、三本足の器のことを指すの」

「あたしと一緒だ」

 自分の足を見た。あたしには生まれつき、左の前足が欠けていた。三本足の猫である。

「わたし、あなたのこと、どこか馬鹿にしてたのよ。三本足は死ぬまで三本足なんだ、ってね。だからアナタのことカナエって名づけたの」

「ふーん……でも、あたしは好きだよ、自分の名前」

「そう」姉は言った。「良かった。実はわたしも気に入ってるの」

 なんだよそれ、とあたしが言うと、姉は小さく笑った。それから、もう本当に駄目みたい、と呟いた。

「時間が来たみたい。アレがわたしを引っ張ってる。戻ってこいって言ってるのかな」

「そっか……残念だね」

「でも楽しかったわ。この力を手に入れてからは、身体が変わったみたいに元気になったし。きっと今だって、身体の限界じゃなくて、本来よりも多くの時間を貸してもらっていただけなんだと思う。わたしがこうなることは、だから、しょうがないことなのよ」

「そっか——嘘じゃないよね?」

「うん——本当よ」

 姉は優しくあたしを抱いた。カナエ、と口が動いた。「わたし、アナタに頼みたいことがある」

「なに? 出来ることならやるよ」

「このアパートを守ってほしいの。わたしの過去が染み付いたこのアパートを——父が居て、母が居て、会ったことはないけれど、たぶん祖父や祖母だって居て、そしてカナエという存在が確かに在ったこのアパートを。わたしの家族の象徴を、母の代わりに、そしてわたしの代わりに、カナエに守ってほしいの」

「いいけど……出来るのかな。猫なんだよ、あたし」

 あたしの質問に、姉は答えてはくれなかった。

 ただ一言、

「本当にごめんね、カナエ」

 とだけを言い残すと、静かに息を引き取った。撫でていた左手は停止し、触れていた右手はあたしの身体からずり落ちた。

 あたしは、にゃあ、と鳴いた。反応はなかった。にゃあ、ともう一度だけ鳴いたが、状況に変化はなかった。

 こうして、一人の人間の生命が尽きた。

 姉であり、大家であり、マキ先輩であったところの『真木 ゆかり』という名の人間の生涯が、幕を閉じたのである。

 それは寒い、寒い、冬の日の出来事——、

 

 ——その夜のことだった。あたしは姉の身体の横で丸くなって寝ていた。

 あたしは夢を見ていた。巨大な存在に引き寄せられる夢だ。あたしという存在が、なにか強い力に引き寄せられていた。それは強大で、絶対的だった。

 あたしはそこでやっと、姉を理解することが出来たのだった。

 それは磁石なのだ。そして今のあたしこそが砂鉄なのだ。

 世界は一変した。あたしがあたしでは無くなっていくのを、あたしという一存在は確かに感じとっていた。

 あたしは中心に触れた。あたしの中に何かが流れ込んできた。これこそ、とあたしは思った。これこそが中心の力なのだろう。きっと、姉もこの力に触れたに違いない。磁石と証した中心に触れたのに違いないのだ。

 そうだ。そうなのだ。だからこそ今、姉は砂鉄の一部となっているのだ。

 あたしは全てを知った。そして、自身が昇華したことを感じた。夢はそこで終わった。

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