第50話 カナエ③

 散歩に行こうと思った。習慣である。暑いのだが、どうしても外に出たかった。あのまま部屋に居たら、何かに押しつぶされそうで怖かった。

 目的地は無い。ぶらぶらと歩くだけである。

 道中、何かが足りないような気がしたが、思い出すことは出来なかった。散歩に、足りない、と感じるものってなんだろう。わからない。

 そうして出鱈目に道を進んでいた時だった。「にゃあ」とどこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。

 耳を澄ました。にゃあ、ともう一鳴き。辺りに目をやった。すぐに縞模様の猫と目があった。電柱の陰からこちらを伺っている。猫はあたしの顔をジッと見ていた。

 試しに、「にゃー」と言ってみた。すぐに、にゃあ、と反応があった。面白くなって何度か繰り返した。

 妙な親近感が沸いてきたので、視線をなるべく下げて、すり足で近づいてみた。それでも猫は逃げなかった。

 ふと、触れたい、といった欲求が頭に浮かんだ。そうだ、それを忘れていたじゃないか、と嬉しくなる。何故だろう。なにを忘れていたのだ?——猫を撫でることだろうか。

 右手を伸ばしていく。上手くいくと思った——が、猫はあたしの手に触れることなく逃げていってしまった。

 無性に悲しくなった。気配を感じて顔を上げると、手をつないだ母と子らしき人間が、こちらに歩いてくるところだった。猫が逃げたのはそのせいだろう。タイミングが悪い。

 あたしは立ちあぐねていた。親子は順調にあたしの背を通り過ぎていった。そのときだった。子供の純粋そうな声があたしの耳をついた。

「ねえ、あの人、腕がないね」

 こら、と母親のとがった声。とっさの発声だからなのか、妙に大きな声だった。少なくともあたしには大きすぎる声量だった。

 反射的にそちらを見やると、母親と目があった。母親はなにか見てはいけないものを見てしまったかのように、すばやく目をそらすと、一度も振り返ることなくあたしの前から消えた。

「……腕?」

 零れ落ちるような言葉だった。ウデとはなんだっけ、と真剣に考えた。

 右手を見た。右肩を見た。これが腕だ、と認識した。

 なんだよ、腕、あるじゃないか——異様な安堵に包まれながら左手を見た。

 絶句した。

 左腕がなかった。

「……あれ?」

 なんでないんだ。腕がないぞ。どうしてあたしの左腕がないんだろう。

 右手で左肩を触った。無いのが当たり前、とでもいうかのように、そこから先は存在していなかった。

 足元がドロドロと溶けていくような気がした。

 わからない。わからない。わからない——あたしはどうしたというのだろうか。

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