第49話 カナエ②


 玄関前だった。

「マキさん、ちょっと!」

 ドアノブに手を掛けたところで、呼び止められた。随分と大きな声だ。身体がビクリと震えてしまう。

「あ、はい」

 振り返る。中年女性が見えた。ピンクの前掛けをした恰幅のよいおばさんである。道路と敷地を隔てる塀の切れ目——敷地内への入り口に声の主は立っていた。

「これ、回覧板」

 おばさんはA4サイズのバインダーを差し出しながら近づいてきた。反射的に身構えるも、なにもおかしいことはないだろう、と気づく。愛想笑いを浮かべながら右手を差し出した。

「ああ、はい、どうも」

「暑いねェ」おばさんは首にかけたタオルで額を拭いた。「涼しいところに引越したいけど、マキさんのとこは難しいだろうねェ。大家さんだもんねェ」

 早く、立ち去りたかった。

 そうですねェ、と当たり障りのない言葉を口にしながら受け取った。なにか話したそうなおばさんを無視してあたしは、それじゃあどうも、と玄関ドアを開けてしまった。

 後ろ手にドアを閉めた。数秒間、きつく目を瞑る。あの人は誰だっけ——ああそうだ、お隣のおばさんだ。名前は——そう、田山さん。なぜ忘れていたのだろう。

 耳を澄ました。雑音は聞こえない。外には誰もいないようだ。小さく息を吐き出すと、どっ、と疲れが襲ってきた。足から力が抜けた。崩れるようにして、しゃがみこむ。

 突然、ガサリ、と音がした。周囲へ目を向ける。右手が目に付いた。そこにあるのは——そう。回覧板だ。その手首に、白いビニール袋がかけられていた。そうだ。すっかり忘れていた。中身はアイスだ。暑いから買いに出たのだった。

 急いで靴を脱ぎ、冷凍庫にアイスをしまう。カップ型のアイスは、触っただけでぐにゃりとへこんだ。

 最悪だ——原因は?

 解っている。記憶が変なのだ。

 近頃のあたしは溶けたアイスに似ていた。熱中におかれ、どろどろと溶けてしまうようだった。

 なにが溶けていく?——もちろん記憶だ。

 思い出そうとしても時間がかかる。冷凍庫に入れれば、なんとか元には戻る。じっくりと考えれば思い出せる。しかし、溶ける前と同じ味ではない。思い出せてもどこかが違う。何かが違う。あたしの記憶じゃないみたいだ。

「——わからない」

 それ以上はわからない。それが怖かった。

 なにか強大な力に、自分がドロドロと溶かされていくさまを見せつけられているみたいだった。あたしに出来ることはなんだ、と考えるも何も思いつかなかった。

 本当に——本当に最悪だ。


       ***


 さあ散歩に出かけよう、という間際、一人のおばさんが姉に声を掛けてきた。振り返る。当然の如く、あたしは抱かれていたので、姉が振り返ったということになる。

「マキさん、これこれ」おばさんは手に何かを持っていた。渡したいらしい。

「ああ、田山さん。こんにちは」

 姉は軽く頭を下げると、おばさんから何かを受け取った。おばさんは、寒いねえ、と首をすくめると立ち話を始めた。姉も応じる。会話内容に興味はないので、あたしは辺りをぼーっと眺めていた。

 数分後、ようやく田山さんとやらが退散した。姉は一度閉めた鍵を開錠し、おばさんから受け取った何かを部屋の中にポーンと投げた。それから二度目の施錠。

「アレ、なんなの」とあたしが聞くと、姉は「田山さんか、回覧板か、ご近所づきあい」と答えた。

 どうやらおばさんとの話しで疲れてしまったようなので、あたしはしばらく黙っていることにした。回覧板かァ。なんか前にも受け取っていたっけ。揺られながらそんなことを考えていた。

 それからさらに数分後のことだった。散歩の途中、姉は唐突に語りだしたのだった。

「ねえ。幽霊、見たことある?」

「ユウレイ?」

「前に教えたじゃない。死んだ後の人間の話」

「ああ。テレビを見てた時の」

「そうそう。夏のさ、怖い話特集——で、見たことはあるの?」

「ないよ。あったとしてもユウレイを知らなかったんだから、それとは解らないって」

「それもそうね」

「見たことあるの?」あたしは姉を見上げた。「聞くってことはあるんじゃない?」

「うーん」姉は首を傾けた。「あるような、ないような」

「なにそれ」

「わたしさ、昔、死にかけたことがあるのよね」

「へえ」初めて聞く話だった。「どうしてなの」

「階段で足を踏み外して」姉は左手ですばやく空を切った。「ゴロゴロゴロー、って落下した」

「痛そう」

「痛みはなかったかな。よく覚えてないだけなんだけど。ガツン、ときただけ」

「ふーん——つまりそのときにユウレイを見たんだ?」

「まあ、少し違うんだけどさ……あ、それとさ、磁石にくっついた砂鉄を見たことがある? 砂場に磁石を突っ込むとくっついてきたりするんだけど」

「なんなのさ」先の見えない会話にじれったくなった。「あるわけないじゃない」

 まあそうよね、と姉は言う。「今度見せてあげるけどね——まあ簡単に言えば、磁石っていうのはある特定の物にくっついたり、ひきよせたりする力があるわけよ。で、そのくっついたり、ひきよせたりする物の一つが鉄でね——鉄ってわかるわよね?」

「それなら分かるよ。あの、硬いやつでしょ。うちにある古いハサミがそうだ」

「そうそう——で、砂鉄っていうのは鉄の砂って書くわけなんだけど、つまり鉄が砂状になった物なわけだ。自然界にあるんだよね、そういう物が」

「それがどうしたの」

「で、その砂鉄に磁石——ああ、磁石っていうのは棒状なんだけど、その棒状の磁石を近づけると、棒の先が砂鉄をぐいぐいと引っ張って、自分の身体に砂鉄をこれでもかってぐらいつけるわけ。たんぽぽの綿毛みたいにくっつくのよ。磁石にはそういう力があるわけだ」

「へェ」少し面白そうである。

「それで、わたしが見たのはそういう磁石みたいなモノだったわけね」

「……へェ」少しも解らなかった。「ユウレイなの? それ」

「わからないわよ」

「なにそれ」

「わからないわよ」

 なにそれ、とあたしはもう一度言って、姉は、わからないわよ、と繰り返した。

 あたしたちの散歩はそうやって続いた。意味はないのかもしれないが、面白みはあった。そんな感じの幸せだった。

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